COLUMN 2015年10月24日

目標の喪失から中央アジアへ【連載ロシア留学記1】

ロシア留学

私は、東京大学文学部歴史文化学科東洋史学専修課程4年に所属している。今は、ソ連領中央アジアにおける民族政策、ナショナリズム論を中心に学んでいる。

私は今、ロシアはサンクトペテルブルグにいる。人口約500万、モスクワに次ぐロシア第二の都市である。東京大学国際本部の全学交換留学プログラムを通じて、サンクトペテルブルグ国立大学東洋学部に2015年9月1日から2016年6月30日まで留学することになっている。

同大学の創立は1724年、つまりピョートル大帝がロシアの西欧化を目指してフィンランド湾岸にペテルブルグの町をつくっていた時代である。政治指導者ならプーチン、メドヴェージェフ、レーニン、作曲家のストラヴィンスキー、作家のツルゲーネフといった人物を輩出していることを考えれば、ロシアにおける同大学のプレステージの高さを薄々ながらも感じ取ることはできるだろう。

私がFacebookに投稿した文章を面白くお読みになって下さった東大新聞の記者の方から、留学生活に関する文章をここに投稿して欲しいとの連絡を受けた。よって、留学中に出遭った出来事やロシア社会などに関して、ブログ紛いの自己陶酔的文章をこれから掲載してゆくこととなる。

まずは、私がなぜロシアに留学しているのかという経緯なり理由なりを、赤裸々に開陳する必要があるように思われる。ひょっとしたらそれは後付けの話であるのかもしれないけれども。そして、長い脱線となってしまうが、お付き合いいただけたらと思う。

大学近くのネフスキー大通り(ロシアの表参道)
大学近くのネフスキー大通り(ロシアの表参道)

 

曖昧すぎる目標設定

時は東大入試合格直後に遡る。私は文科二類に合格した。高校3年間のほとんどをお受験のための勉強に費やすという、今の私から見れば暴挙に他ならないことをしでかしたから、悠々と東大に入ることだけはできた。「東大に入って、経済学と英語を学んで、国連の世界銀行で働くぞ・・・」という曖昧すぎる目標設定と、「自分がもし落ちたら絶対に周りに馬鹿にされる」というしょうもないプライドだけが、受験勉強に日夜礪行する原動力であった。

第二外国語を選ぶ際も、なんとなく社会主義とやらに関心があったのでロシア語と中国語とでしばらく迷ったのち、幼い頃から文字が好きなので、キリル文字の不思議さからなんとなくロシア語を選択した。

予備校での合格者インタヴューにおいても、私の合格を祝う人たちとの会話においても、「東大はゴールではなくて通過点に過ぎません。卒業したら、国連とかで働きたいです・・・といったような感じですかね?」と一言二言、いい加減な言葉をほいほい口から吐き出せば、学歴主義フィルターを介してでしか私を見られなくなってしまった人からは、必ずと言ってよいほど、「ちゃんと将来のことを考えているね!凄い!」などという返事が来たものである。

そもそも、ある人が、凄そうに見える相手に対して、「ちゃんと将来のことを考えている」という常套句を口にした場合、その人は相手のことについてほとんど知らないのになんとなくそう言っている、という可能性が高い気がする。しかし、そのときの私は、尤もらしく見えて、体のいい、フワッとした目標を引っ提げてさえいれば人から褒められることに、満足していた。

 

幸先の悪い大学生活

1年の夏学期が始まった。キラキラした学生生活を送りたいという淡い期待を抱いていた。「国連」というワードに引っかかって、私は模擬国連というサークルに入会した。そこでは、実際に行われた国際会議をモデルに、各人に担当国を割り振り、データを集めたり担当国について学んだりしてきた上で、数日かけてじっくり議論するということが行われていた。

このサークルは、東大のなかでは花形サークルのような気が私にはしていたことも、自尊心の強い自分が入会に踏み切る理由の一つとなった。現に、模擬国連自体は本当に素晴らしいサークルだし、そこには優秀な方々が集まっていた。しかし、そこで行われていたのは、私のやりたいこととはなんとなく違っていた。2ヶ月もすると、やめてしまった。

 

目標の喪失

国連に関する本を、当時、3冊読んだ。実を言うと、国連について書物を通じて知ろうとしたのは、このときが初めてであった。イラク戦争の際にアメリカが国連を実質的に無視して単独行動を採ったこと、組織構成、議決方式、資本の観点から見て、世界銀行に対するアメリカの影響力はかなり強いことを知った。

しかし、そこから下した判断は、「私が仮にそこに入った場合、やりたいことがやれない可能性があるから、国連で働くという目標を留保しておいた方がよいのではないか」というお粗末なものだった。はっきり言って、この判断には論理の飛躍があるし、特に「やりたいことがやれない」という部分において「なんとなく」が登場している気がする。

要は、当時の自分は、何も考えていなかったのである。もし、当時の自分が、国連についてもう少しまともに学んで、もう少しまともな判断をしていれば、また違った人生を送っていたのかもしれない。とにもかくにも、私は国連への熱意を失っていった。

高校のときはテストの点数さえ良ければ「凄い奴」になれた。しかし、一部例外を除き、大学では違う。自分なりにまともな目標設定をして、その目標に従って努力する首尾一貫した人間が「凄い奴」と見做される。私の周りには、私にとって「凄い奴」に見えたし、現に「凄い奴」である可能性が高い人間がたくさんいた。その一方で、私の場合は、路線決定という初期段階で難航していた。これは、私のみならず、入学直後の東大生にありがちなことだと個人的に思うのだが、いかがであろうか。

 

そうだ、中央アジアに行こう

突然、「そうだ、中央アジアに行こう」と思い至った。元々、幼少期、世界地図や様々な地域の概説本を見るのが好きで、とりわけ中央アジア、コーカサス、バルカン半島の多民族国家に強い関心があった。でも、これだけでは、中央アジアを選択した理由は説明できても、そもそもなぜそこに行こうと思ったのかを説明したことにはならない。

理由は二つある。一つに、鬱屈した気分を旅行で晴らしてやろうという狙いがあった。もう一つに、大学内における自分の「キャラ作り」の面もあったことも、正直に認めなければならない。

そうと決めたら、大使館に足を運んでビザを取得し、現地の旅行会社とやり取りし、バイト賃で航空券を買い、駒場図書館で見つけた本でウズベク語の勉強をした。なぜ、当時の自分はあれほど熱意をもって渡航準備に励んだのか。きっと、「このままではまずい」という思いがかなり強かったのだろう。

 

ウズベキスタンへ

果たして、ウズベキスタンのタシュケントに辿り着いた。これが初の海外旅行だった。飛行機から降り立ったときに浴びた、じりじりとした日差しと、空港から出たときにした、つんとした香辛料の臭いが今でも忘れられない。

到着したのはよいものの、どうやら旅行会社に騙されていたらしい。部屋を予約したはずのホテルが、そもそもなかったのである。初の海外旅行にして、独り身であった。お金もなければ、言語能力もなかった。このときほどパニックになったことはない。

成田からタシュケントへ行く直行便の機内で偶然出会った元東大留学生の現地大学教員の伝手を頼って、サマルカンドに住まう彼の親戚の家に旅行期間中の大半を過ごすこととなった。ウズベキスタンでは、外国人旅行者が民家に泊まることは通常できないが、1日当たり10ドルの賄賂を払って、現地ホテルの滞在登録証明書を手に入れることで、なんとか対処できた。

家では、英語は通じなかったし、付け焼刃のウズベク語も、日常生活で基本的にロシア語とタジク語を使う彼らの前では役に立たなかった。しかし、家族の方々は、この愚かな異邦人を、とても良くもてなしてくれた。正直なところを言うと、日本に早く帰りたいという思いもあったが、家族と観光もできたし、現地の生活習慣も知ることができた。(続く)

ウズベキスタン、サマルカンド(2012年夏)
ウズベキスタン、サマルカンドのレギスタン広場(2012年夏)

 

(文・写真:李優大)

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