インタビュー

2014年11月14日

「より人間らしく」進化を続けるロボット研究 稲葉雅幸教授インタビュー1

2013年末、Googleが初めて日本企業を買収した。ロボットベンチャーのSCHAFTだ。このSCHAFT創業者を輩出した研究室を率いる東京大学の稲葉雅幸教授に、ロボット研究の歴史、そしてロボットビジネスの現状について話を聞いた。前編となる今回は、ロボット研究の特に初期の歴史について紹介する。

inaba1114.jpg

感覚と行動の相互作用としてのロボット研究

稲葉教授が所属する情報システム工学研究室では、主に知能ロボットの研究を進めている。稲葉教授曰く、現在の主たる研究内容は「ロボットを作るための環境についての研究」だ。稲葉教授の研究を中心に、簡単に知能ロボット研究の歴史を振り返ってみよう。

日本におけるロボット研究の歴史は古いが、今から約30年前、1983年に日本ロボット学会ができたことがひとつの契機になっている。ロボット研究は、ロボティクス、すなわち「感覚と行動の知的な相互作用の研究」として発展してきた。ハードウェア作りを想像することが多いロボットだが、身体を持ち、環境と相互作用する知能についての研究でもあった。

1969年、稲葉教授が後に師事することになる井上博允教授(東京大)が、世界で初めて、環境に合わせてロボットの手が動きを変えるバイラテラル制御を、コンピュータの計算によって実現した。

それまでのロボット研究では、環境に対するロボットの制御方法として、何かしらの目標軌道を設定し、内部回路を切り替えることで制御を図っていた。また、あるロボットを操縦する際には、そのロボットがどこにいるか、他の物体に触れたかどうかは、人間が反力を感じたり目で見る以外に判別ができなかった。つまり、人間がロボットの動き方を決める、一方的なユニラテラルな仕組みだったのだ。

それに対し井上教授は、コンピュータの計算によってロボットに感覚機能をもたせ、ロボット自身が環境に呼応して動作の種類を変えることができるようにした。人間が感じるのではなく、コンピュータが感じて、コンピュータで操作できるようなロボットを開発したのだ。当たり前に聞こえるこの仕組みが生まれたのは、今から45年前のことであった。

稲葉教授は、1981年に井上教授の研究室に入り、知能ロボットの研究を開始する。大学院で修士論文のテーマにしたのが、「ロボットの手が紐を輪に通して結ぶ」という、一見単純に見える動作だった。しかし、このテーマはその当時、再現することが非常に困難だった。その理由は、紐という形が変わる柔らかい構造を扱うことが、「視覚」という感覚器官を持たないロボットにはできなかったのだ。

「目でものを視るとはどういうことか?」という、知能に関する根源的な問いに答えるため、稲葉教授は、視覚をロボットに持たせることで、対象物の発見・動作の確認・ビジュアル・フィードバックによるロボットの誘導を可能にした。井上教授に続き、この研究成果も世界で初めてのものであった。1992年頃には、画像の類似度を計算することで、動いているものをリアルタイムで視認し追跡することが可能になった。

視覚から触覚へ、より人間らしさを求めて

これまで手・腕を中心に研究を進めてきた稲葉教授だったが、自身で動き回ることができ、関節も複数あるロボットの研究も開始する。部位が増えれば自由度が増え、行動の種類が増える。行動の種類が増えれば、学習能力に還元され、より人間に近いロボット作りが可能になるからだ。

「構造が同じであれば、サイズと情報処理の仕組みは依存しない」と考え、小型の人型ロボットで実験を繰り返す。その結果、1993年には、「脳を持ち歩かない」ロボットが完成する。ロボット本体とコンピュータを分離し、無線によって操作を可能にしたのだ。今やWi-Fiで当たり前になっているが、当時はラジコンの信号を用い、身体はラジコンのモジュールそのものであったという。

小型の人型ロボットができたことで、新しい感覚器官を備える必要性にも迫られる。それは、触覚であった。

ある時、学生が椅子に座った小型の人型ロボットを持ち上げると、ロボットが足を曲げたままだったことがあった。子供を持ち上げれば自然と足を伸ばすが、その時のロボットには触覚がなかったので、自然な動作ができなかったのだ。

では、触覚を与えるにはどうすればよいか? 稲葉教授は、1995年、触覚スーツとして、電気によって全身を160の触覚をもったスーツで覆うロボットを開発し、触覚を与えることに成功する。

続いて、関節に関しても研究が進む。これまた学生の研究で、小型ロボットに雲底をさせたところ、まったくしなやかに動くことができない。この経験から、関節の柔らかさを調節できる能力が必要と考え、人間のように背骨をもった体幹作りを目指すことになる。1995年には、筋骨格型ロボットとして、電気とバネによって関節の柔らかさを調節することが可能になった。

inaba1114-2.jpg稲葉教授の後方、小型のヒューマノイドロボットがブランコに座っている

1990年代後半には、ヒューマノイド研究は、小型から等身大へと道が開かれる。1996年に本田技研工業が等身大ヒューマノイドを発表したことを受け、1998年から2002年まで、井上教授をリーダーとして「人間協調・ 共存型ロボットシステムの研究開発」プロジェクトが経産省の下で実施された。このプロジェクトの最終成果機として、等身大ヒューマノイドのプラットフォームHRP2が開発された。

2003年以降、稲葉教授がそれまで小型のヒューマノイドロボットで行ってきたソフトウェア研究は、HRP2を用いて等身大のロボットで展開することが可能になった。HRP2によって、人が行動する環境で、人のための道具や環境をロボットが認識し操作できるようにする研究を行い、ソフトウェア研究の知見をさらに蓄積することが可能になった。

その後も、ヒューマノイドロボットの実用化に向けて、様々な企業との共同研究が続く。トヨタとともに家事支援ロボットを、パナソニックとともに食器洗いロボットを、富士通とともに高齢者の見守りロボットを開発してきた。

進化するハードウェア、一般化を目指すソフトウェア

腕だけのロボット、小型ロボット、複雑なロボット、等身大のロボット……、いずれのロボット開発も、常に「ロボットの身体の自由度を人間レベルにまで高めようとする」ことに主眼を置いていた。

稲葉教授は、これまでの研究を振り返り、「人間の脳を研究するのに、ロボットはハードが貧弱すぎた」と語る。人間は、同じ脳の下で身体は成長していくのに、ロボット研究ではハードが知能に追い付いていなかったのだ。

「それまでの大学の研究室では、『ロボットによって人間の知能を探求する』ことを目的としつつも、結果的に『ロボットを作るだけで終わってしまう』ことが頻繁にありました。新しい知能を試したくても、ハードを作って時間切れになってしまうことが往々にしてあった。一方で、先輩が作ったハードウェアで新しいソフトウェアを実験できても、次に結びつきづらかった。改善点が見つかったとしても、次の人がハードを改造しなければならず、次の次の世代にならないとソフトウェアをいじれなかったからです。本質的には、ひとりでソフトもハードも作れるようにならないといけない」

そこで、稲葉教授が重視しているのが、「発展的ソフトウェア構成法」という考え方だ。一言で言えば、「ソフトウェアの部分を一般化し、昔取り組んだ研究成果を絶やさない」ための手法だ。

「ハードウェアは進化するが、ソフトウェアはいかに一般化・抽象化するかが重要だ」

ロボットごとにプログラミングすることもできるが、あくまでソフトウェアは一般化し、ハードに固有化させない。そうすることで、ソフトウェアを継続して利用することが可能になり、新しいハード作りに専念することができる。

「ヒューマノイドロボットの分野では、日本は最先端を走っている。事実、欧米は今、日本を追いかけて人型ロボットの研究に励んでいる」

近年のロボット開発競争は、Googleといった大企業も本腰を入れ、ますます過熱している。その最先端に、日本発のSCHAFTがいたことは間違いない。(つづく)

(文責 荒川拓)

※本記事は、Newspicksとの共同企画です。外部メディアの転載を禁じます。

稲葉雅幸(いなば・まさゆき)教授

1981年、東京大学工学部機械工学科卒業。1986年、東京大学大学院工学系研究科 情報工学専門課程 博士課程修了(工学博士)。東京大学大学院工学系研究科教授を経て、2005年より情報理工学系研究科創造情報学専攻教授。専門は、知能ロボットシステムの研究など。

タグから記事を検索


東京大学新聞社からのお知らせ


recruit
koushi-thumb-300xauto-242

   
           
                             
TOPに戻る