学術

2025年8月1日

【戦後80年】1945年7月12日 田中耕太郎 国民教育と道徳の内面化に就て(『大學新聞』1945年7月21日号より)

 

 80年前の『大學新聞』から戦争当時を考える本企画。今回は、1945年7月21日発行の「大學新聞」より、田中耕太郎教授(東大法学部(当時))による「国民教育と道徳の内面化に就て」を転載する。この時期、田中耕太郎や南原繁(東大法学部長(当時))ら東大法学部の教授7人は終戦工作にあたっていたことで知られる。検閲もあるこの時期に、田中が表ではどんな発言をしていたか。「当時」について考えるきっかけにしてほしい。(終戦後の田中耕太郎や南原繁に関する記事も今後公開予定、改行など一部改変あり)

 

田中耕太郎 国民教育と道徳の内面化に就て

 

 戦争自体が道義に立脚しなければならぬのは当然であるが、有効に戦争を遂行するためにあらゆる階層の国民が道義心とその実践において徹底していなければならなぬことは、総力戦たる現戦争が実證しているところである。国家が個人の全大分の発揮及び個人に対する第犠牲を要求すること戦争に如くものはないのである。それは最も崇高な道徳的行為でもなければならぬ。

 

 ところで我々は従来の戦争と同じく今次の戦争においても一つの矛盾に逢着した。それは一方前線における各種の多数の英雄的愛国行動に関する報道が日々の新聞紙面を満しているに拘らず、他方銃後の日常生活の各方面に於て利己、怠慢、不作法、不誠実、無責任、更に刑辟に触れるような反社会的(病理的)現象が跡を絶たないのみか、世間の識者をして公然慨嘆せしむる位増加している事実である。道義に基かなければならず、道義に依って遂行せられ得る戦争が国民の道徳的水準を低下せしむることが果してあり得るであろうか。若しこれ有りとするとするならば、我々は深く其の原因について反省しなければならない。

 

 かような病理的現象が他の戦争当事国に比較して特に多いか少いかは私の知るところでない。

 

 我が国民としては、学校に於て又社会生活に於てあらゆる機会に国家思想と愛国心の涵養のため異常の努力が為政者によって払われ来ったこと世界に類例を見ないところである。近年の国体明徴運動や個人主義自由主義の排撃も必ずや国民道徳の水準の向上を期さなけれなばらぬ筈である。ところでかような努力が実を結んだとするならば、今日度々国民の道徳的水準に就て批判や慨嘆の声を聞くことはまことに異としなければならない。若し批判や慨嘆が理由ありとするならば、我々は深く其の原因に就て省察しなければならないのである。

 

 我々は従来の愛国運動や精神主義の昂揚が単な抽象的口頭禅に終りはしなかったか、又真に国民個人個人の内面的生活に対し更生的効果を持っていたか否かを疑うものである。今や国民の道徳的教育が全体に亘って反省せられなければならぬ。我々は教育勅語に宣明せられている人倫と国民教育の大本を具体的に如何にして実践するかにつき、果して従来の如き文教政策で十分であったかどうかを謙虚な態度で再検討しなければならぬ時期に直面している。歴史の教育は国民を民族の美点に陶酔せしめ、その欠点に対し盲目にするものであってはならない。愛国心の昂揚は他国民を敵視軽侮し、彼等の長所を学ぶ態度を排斥するものであってはならない。

 

 就中最も警戒するを要するのは道徳生活の形骸化である。あらゆる善業も若し対世間的の動機に起因するものならば、法律的判断は別論として道徳的に無価値であり、その価値は内心の純潔にかかるということ──換言すれば良心の権威──が国民教育に於て特に等閑に委せられるやうになったことが、正に病弊の根源である。

 

 こう考える時に我々は明治以来の実證主義が内心の純潔を強調する宗教から教育を切り離したことを最も重大な禍根と認めざるを得ない。然るに一部極端論者は良心を鋭くすることに役立つところの諸宗教、諸思想例えば儒教カント哲学、基督教更に仏教すらも、それ等が単に外来のもの日本的乃至東洋的ならざるものある理由を以て排斥し或は白眼視しているのである。

 

 国民道徳の向上には国民に対し最も影響力大なる為政者や各方面の指導者階級の覚醒垂範が必要である。国民は彼等の一部の言動、態度に対し内心疑惑を懐きつつも批判を敢てし得ない状況にある。特に国民が彼等から要望するのは弱き責任感と思想的節操とである。戦局が現在の重大段階に直面するに至ったのについては、時局担当者の努力に拘らず、善意の失策や誤算が決してなかったとはいえないであろう。楽観的見込でさえあれば、それにつき確信がなくとも、又はそれに就て後日反対の事実が実現せられても、事柄が重大な場合には決して不問に附せられるべきものではないはずだ。又責任者が責任を感ずる以上は、その責任感を具体的に実現しなければならない。昔の武士は彼等の仕方においてそれを実現したのだ。然るに既往十数年来の熾烈な日本精神や愛国運動に拘らず、この重大時局に於てなお責任の転嫁と国民の健忘症に乗ずる厚顔者流の横行が跡を絶たない。若しそれが指導者層にありとせば、それこそ国民思想に及ぼす害毒恐るべきものがある。

 

 特に我々は操觚者流を警戒しなければならぬ。我々は綿羊と山羊とを見分けなければならぬ。彼等が過去に於て思想的節操を有していたかどうか、時勢迎合の徒であったかどうかを十分検討し、抽象的愛国主義の言辞に眩惑されてはならない。

 ×──×

 あらゆる困難を克服し焦土の上に溌剌たる祖国を再建設する業は国民道徳の内面化を離れては行われ得ない。それは先ず良心的、自主的な人格の所有者に日本人を作り上げることから発足しなければならない。人格の強調が個人主義自由主義思想として排撃せられたことに従来の病弊が存する。道徳の内面化によって初めて従来日本精神運動や愛国運動が正しき軌道上に置かれ、完成の緒に就き得るのである。

 

 識者は私がかような自明のことを今更力説するのを片腹痛く感じられるかもしれないが、当然のことが必ずしも適用しない点に現時世相の特徴が存することを考え合されて諒とされたい。(二〇・七・一二)(筆者は東大法学部教授)

 

 

1944年7月から1946年4月の間、全国の学生新聞は『大學新聞』に一本化され、本紙の前身『帝國大學新聞』の編集部が編集を主に担っていました。終戦から80年の節目を迎え、戦争の当時を語る人々は減る今、遠い存在となりつつある「当時」を考える一助になれば幸いです。

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