中学生の時に東大を目指すことを決め、高校にも塾にも通わずに東大に合格した神田直樹さん。大学卒業後はマッキンゼー・アンド・カンパニーに入社し、1年後に「1人で勉強ができるようになる」ための個別指導を行う株式会社Overfocusを立ち上げた。東大を目指した理由や独学法、地方高校の学習支援に尽力した東大生活などについて聞いた。(取材・鍋田萌子)(写真は全て神田さん提供)
先生の反対を押し切り、独学で東大を目指す
──中学生時代に東大を目指すことを決めたそうですが、そのきっかけを教えてください
前提として、僕は小学生の頃から椅子にきちんと座って授業を受けることが苦手でした。ただ、日本の公立小学校では、先生1人当たりの生徒数も多いし、多様な人がいたので、姿勢が悪いくらいで注意されることはありませんでした。勉強はできたのでむしろ優等生。
でも中学1年生からドイツのミュンヘンにある日本人学校に通うようになると、生徒数に対して先生の数が多く、先生の熱意もかなり高かったので、姿勢など些細なことも逐一注意されました。通っている層も教育熱が高い家庭が多く、品行方正で真面目な子が多い中で、僕一人に向けられる視線がすごく強かった。熱意の高い先生が多いのは一見理想的な学習環境かもしれませんが、僕はそれを窮屈に感じました。
もっと居心地が良い場所で学びたいと思った時に興味が湧いたのが、自分で学校を作ることです。そして理想の学校を作るためには、頂点を見なければいけない。そこで、日本で優秀とされる人たちが素晴らしい教育を受け、たどり着く場所として東大を目指すことにしました。
──高校にも塾にも通わず、東大を目指す選択をしたとのことですが、その背景にどんな考えがありましたか
当時僕の成績は日本人学校の1学年11人中4番目でした。悪くはないですが、東大レベルには到底及ばず、普通のやり方では東大には入れないと思ったわけです。だから自分が生きている時間の全てを勉強に捧げようと決めました。僕はもともと学校の授業で学力が伸びた経験がなかったので、高校に通うよりも独学で集中した方が絶対に効率的だと思いました。
親は結構応援してくれたのですが、先生からは反対の嵐でした。絶対にうまくいかないから高校に行きなさいと言われましたね。僕のことを考えてそう言ってくれたかもしれないですが、本当に僕のことを見ているのか、と疑問に思いました。中学生なりの反骨精神とも相まって、独学で東大に行きたい思いが強くなりましたね。
他人の選択には責任を取れないので、僕の進学選択に対する先生の助言について先生自身が責任を取れとは思いませんでした。ただ、責任が取れないならば言い切ってはいけないと思います。先生は生徒を、自分が良いと信じているものを作り出す対象にしてはいけない。先生は生徒の声を聞き、生徒がこうありたいと思っていることのサポートをせねばならぬと、ずっと思っています。
──実際に一人で勉強を始めてみて、順調にいきましたか
実は1年目の12月ごろまでほぼ棒に振っています。ゲームをしていて、平均的には1日20分ほどしか勉強していませんでした。中学3年生の頃は70あった偏差値は、12月の全国模試では40ほどになりました。
勉強の継続が難しかった僕は、ありとあらゆる勉強法を試しましたね。とにかく自分を使ってPDCAサイクル(Plan(計画)、Do(実行)、Check(測定・評価)、Action(対策・改善)のプロセスを繰り返し効率の向上を図ること)を回したことで、自分に合う奇天烈な勉強法に至ったことも結構ありました。素振りをしながら勉強するとか、うまくいかなかった勉強法もたくさんありましたが(笑)
個人的に良かったのが、休憩しない勉強法です。普通は勉強の合間に休憩を取りますが、休憩すると勉強になかなか戻れない。他の誘惑に負ける1番のきっかけは休憩だと思ったんです。脳みそを休ませるために休憩が必要だと思っていましたが、よく考えてみると自分が休憩時間にしていたことはゲームなど脳みそを使うことばかり。実は、疲れているから休憩が必要なのではなく、退屈しているから休憩が必要だったのではと思い、リフレッシュのために3分だけ他の科目を挟むことにしました。休息ではなく気分転換できればいいのであれば、それは勉強でも達成されるのでおすすめです。
──自身でPDCAを回したのはすごいですね
それを可能にした土壌は中学生時代にあると思っていて。中学生の時、何が起ころうと30分しか勉強しないと決めていたんですよ。その中でみんなと同じ成果を出すことを大事にしていたので、少ない時間で人々と同じ成果を出さなければいけないのであれば、必然的に勉強法を工夫する必要がありました。勉強のPDCAを回す力はその生活で根付いたと思います。
だからもし受験まで時間がある場合は、現時点の成績にこだわらずあえて勇気を持って、1日の勉強時間の下限ではなく上限を決める方法を取ってもいいと思いますね。
──試行錯誤する中でうまくいかないこともあったとのことですが、東大への思いがブレることはなかったですか
思いは全くブレませんでした。東大に入るために高校に行かない選択は、15歳の僕にとってとてつもなく大きなもので、高校生活を犠牲にして東大を目指した以上やる気はとんでもなく高かったです。東大に行くかどうかは生死に関わるくらいの大問題だと思っていました。
それほどやる気があるのに勉強ができない状況になった時に、勉強はやる気で続けるものではなく、「仕組み」によって続けるものなのだと学びました。
現在運営している会社Overfocusのプログラムでも、僕が操作することができないと思っているのが生徒のやる気なんですよね。それどころか、生徒自身ですらも操作できない。だから、やる気がなかったり、体調が悪かったり、最悪な日があろうとも最低限の勉強ができるような仕組みを作ることが重要。勉強ができない時でも、生徒のやる気を絶対に否定せず、仕組みが悪いからできないだけだとアピールしていきたいと思っていますね。
──受験の経験はどのように今につながっていますか
中学、高校、大学、会社と人生を進んでいくにつれ、だんだん自分と同質的な人が多い世界に入りますよね。そうした同質性の中で自分のアイデンティティをどう求めていくかがすごく難しくなる。例えば、東大に入る人のアイデンティティに「頭のよさ」がありますが、東大の中でなお「頭のよさ」がアイデンティティの人はなかなかいません。みんなそこに葛藤しながら、自分はどういう人かを考えていくと思います。
この点において僕の助けになったのは、「みんなとそもそも違う人生を歩んでいる」という自分の文脈です。僕はただ勉強ができるだけではなく、一人で勉強してきた歴史があり、それはまさに自己実現の過程でした。この世界は自己実現のためにあると思えるようになった点が1番の学びだと思います。
同質性の中でなお自分が何者なのかを決めるのは、やはり1人で学ぶ力だと思います。1人で学ぶことができたら人は何をやってもどこにいてもいいわけですから。エリート的な同質性の高い世界と、自分の自己実現のための世界、その二つの世界の「反復横跳び」ができるようになった点が、僕が受験を通して得たもうひとつの強みだと思います。これは僕の人生のテーマでもありますね。
東大入学後、地方高校生の支援に取り組む
──「頂点」が見たいと思って目指した東大。実際に入ってみてどうでしたか
最初入った時は、やはり拍子抜けというか。もっと天才で奇想天外な奴が集まる大学だと思っていました。もちろんそういう人もいましたけど、人生における目論見やあるいは願望、呪いなどがなさすぎる人が多いことに、ちょっとした失望を持ちましたね。ここに僕は青春の全部をいけにえにしたんだと思った時に後悔すらあった。僕から見た東大生は、勉強ができてそのまま流れで東大に来て、人生に何の意思決定も見えなかった。
ただ、東大で過ごす中で、意思決定をしている東大生に出会ったり、僕が意思決定をしていないと思っていた人たちの意思決定の問題が発露する瞬間を見る機会が何度もあったりして。最高峰の教育においてそうした瞬間を見ることができた満足感はすごくあります。
──非進学校出身の東大生が集まるサークルを運営していたそうですが、学生時代のお話も聞かせてください
もともと、非進学校出身の東大生のコミュニティ(現在のUTFR)がX(旧Twitter)上にありました。僕がそれに入ってしばらくしたころに、ある高校から「うちはまだ東大合格者が出たことがないが、東大を目指している人たちがいるから話をしにきてくれないか」と提携のお誘いがきて、そこで僕が手を挙げて企画をしました。思えば、東大合格者が出たことがない学校から東大に入るには独学が必須になるから、その支援活動はすごく面白いと思い僕が色々と関連の仕事を持ってくるようになりました。例えば、石垣島や高知県で教育活動を始めたりだとか、小学館から書籍を出版したりだとか。その流れで、そのサークルの代表にもなりました。
──具体的にはどのような活動を
僕らが1番テーマにしていたのは「継続的な支援」です。
僕が1人で勉強するために必要だと思っている要素は三つあって、一つ目は1人で勉強するためのノウハウ、二つ目はお金、三つ目は「承認」です。やっぱりどこかで誰かが自分を認めてくれたら頑張れるわけですよ。
石垣島は未だかつて東大合格者が出たことがないですが、いきなり東大を目指すとなっても応援されにくい。例えば自分の子どもがいきなり漫画家を目指すと言ったら、100%信じて応援できるでしょうか。よく分からないし、やめておいた方がいいと思いますよね。でもそこに手塚治虫みたいな人が現れて、「僕もそうだったよ」みたいな話をすると、これはとんでもない説得力だし、大きな承認だと思うんですね。同様に、石垣島の場合は僕らの存在が役に立てると思いました。
でも、承認は知らない相手に対してできるものではないからこそ継続性をテーマにしていました。年に何回も訪れて交流を深め、一人一人と喋って、成長を認め、伝えることをすごく大事にしていました。
僕も自身の経験として、親が僕を承認してくれたことがすごく大きくて。そうでなければ絶対やらならなったと思うし、続けられなかったと思います。
「自分だけが楽勝にできることを徹底的にやれ」
──大学卒業後、マッキンゼーに入社し、1年で辞めてOverfocusを立ち上げました。どのような経緯がありましたか
僕は学生時代、瀧本ゼミ(2011年に瀧本哲史氏により創設された東大前期教養学部ゼミ)に入っていました。ここは株式投資や政策立案を学びますが、本当のテーマは意思決定です。瀧本ゼミには教訓のようなみんなが心に留めているものがいくつかあり、その一つが「自分だけが楽勝にできることを徹底的にやれ」という言葉でした。
マッキンゼーで働き、疲れ切っていた僕は、起業のアイデアを100個くらい考えた中で、瀧本ゼミの同期にどれが面白いか尋ねました。その際「神田だけが楽勝にできることをやった方がいい」という話になり、つまりそれは、僕の人生の文脈に乗っているものでなければいけないと気づきました。そして僕の人生の文脈とは、一人で学んだ歴史なのではと思いました。そこで1人で勉強するための会社をやろうと思ったのがOverfocusの始まり。
Overfocusという社名は瀧本氏の言葉である「You cannot overfocus.」から来ています。「集中しすぎてもしすぎることはない」という構文ですが、僕は集中しすぎるくらいに僕の人生の文脈に沿ったことをやると決めたのでOverfocusにしました。実は業務内容は一切関係ないですね(笑)。
──会社の未来も含め、今後の展望を教えてください
僕が今夢見ているのは、30歳くらいでもう一度東大に入ることです。今度はアカデミアの世界で自分の夢を追いたいなと。
あとは駒場を楽しみたいですね。僕の学生時代の反省と後悔として、自分がやるべきことを決めすぎた点があります。もっと思い悩む時間があってもよかった。駒場時代は本来、将来何しようかと考えるべき時間だと思いますが、僕の場合はゴールを数年先に設定してやるべきことに追われていた大学生活だったので、もう一周したいです。
理想としては「2年考えて8年頑張る」という10年一区切りで、ぐるぐる回していく人生が好みです。考える時間がないと何をやりたいか分からないですしね。だから30歳になったら一旦今やっていることを整理して、また別の人生を歩みたいなと思っています。