COLUMN 2020年2月26日

【研究室散歩】@生物物理学 澤井哲教授 粘菌から迫る生命の普遍性

 人間の体は一つの受精卵に始まり、多数の細胞に増殖・分裂してさまざまな器官を形成してゆく。細胞たちがどのように協調し、このような現象を実現するかは謎に満ちている。澤井哲教授(総合文化研究科)は実験と理論の両面から細胞の集団運動を研究している。

 

 澤井教授は学部時代、物理学を学ぶうちに、人間である自分自身と学んだ物理学との間のギャップに強い興味を抱いたという。「物理学は宇宙(コスモス)についての理解を与える壮大な体系で、さまざまな予測をすることもできますが、身近な人間や生物(ミクロコスモス)についてはどうなのだろうと」

 

 そんな時に、澤井教授は非平衡系の物理学という分野があることを知った。「それまで学んできた物理学は比較的静的な物理的対象(平衡系)に関するものが中心でしたが、私の興味は非平衡系の動的な過程にあるということに気付きました」。大学院で非線形の力学系の研究に関わるうちに、より具体的な対象として、細胞性粘菌と呼ばれる生物を用いた研究に軸足が移った。ちょうどその頃、生物学への数理的・定量的な研究が米国を中心に盛んになりつつあり、澤井教授は博士号取得後に米プリンストン大学で研究に従事した。そこで分子生物学の実験手法も取り入れ、実験と数理的手法が混在する現在の研究スタイルにつながった。

 

 

 澤井教授が特に注目してきた研究対象はキイロタマホコリカビという細胞性粘菌の一種だ。アメーバ状の単細胞生物だが、栄養が不足すると多数の細胞が集合して「移動体」を形成、やがて「子実体」になる(図A・B)。単細胞生物が集合することで一つの個体のように振る舞う。細胞性粘菌の解析を通じ、多細胞生物の秩序形成の基本にある自己組織ダイナミクスの仕組みに迫るという試みだ。

 

A:キイロタマホコリカビの生活環 B:集合したキイロタマホコリカビが形成する子実体 C:集合した粘菌細胞が予定柄細胞と予定胞子細胞に分離する様子(画像は澤井教授提供)

 

 まず着目したのは細胞性粘菌が集合する過程。散在する粘菌細胞は環状核酸であるcAMPを産生、分泌し、これが周期的に細胞間で波となって伝搬することで互いにコミュニケーションを取り、らせん形を描きながら1カ所に集合する。

 

 澤井教授らは、この波が細胞集団でいかに出現するか、この波をどのように手がかりにして粘菌が移動方向を決めているか、を実験的検証を重ねながら明らかにしている。細胞集団と細胞内という異なる空間スケールの現象であるが、非平衡系のパターン形成という共通の数理的背景がある。

 

 さらに最近では集合した細胞が子実体を形成する機構についても研究を進めている。集合後の粘菌細胞は子実体の柄になる予定柄細胞と胞子になる予定胞子細胞に分化するが、これらが空間的に再配置され分離し形態形成する仕組みだ(図C)。

 

 分かってきたことは、粘菌の運動方向がcAMPの濃度だけでなく他の細胞との接触にも影響されることである。cAMPの刺激と接触刺激が同時に与えられると、予定柄細胞はcAMPの刺激に、予定胞子細胞は接触刺激への応答を優先する。2種類の細胞が分離する機構の解明に大きく近づいた。

 

粘菌細胞が分泌するcAMPのらせん波 Copyright © 2007 All rights reserved Satoshi Sawai

 

 細胞が運動して目的の場所に配置される現象は多細胞生物においても免疫や個体発生、けがの治癒などで幅広く見られる。粘菌を対象とした研究をさらに深める一方で、そうした他の系の理解に発展させる研究も始めているという。今後の展開がますます楽しみだ。

 

 

 研究室には数学・物理学系から生物系などの多様な背景の学生と研究員が在籍し、それぞれの得意分野を生かしたアプローチをとっている。「生物学は複数の分野の知識や手法を投入して取り組む総合科学の側面が強い。既存の枠を越える開拓精神を今後も大切にしていきたい」

 

澤井 哲(さわい さとし)教授(総合文化研究科) 01年東北大学博士課程修了。博士(情報科学)。 米プリンストン大学分子生物学部博士研究員などを経て08年総合文化研究科准教授、18年より現職。

この記事は2020年2月11日号から転載したものです。本紙では他にもオリジナルの記事を掲載しています。

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