インタビュー

2016年4月19日

16年度東大入試で著書からの出題 内田樹さん「身体的感覚を大事に」

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 武道家・哲学研究者として言論活動や教育・武道指導など八面六臂の活躍を見せる内田樹さんは、東大の卒業生。2016年度東大入試の現代文に「知性」に関する内田さんの文章が出題された。

 単なる情報量ではなく、知的枠組みそのものの柔軟性や身体的感覚で知性を測ると説く。知性だけでなく、これまでの生き方全般で身体的感覚を重視してきたという内田さんに、大学での学びや自身の大学生活について話を聞いた。

(取材・太田聡一郎、矢野祐佳 撮影・小原寛士)

 

 

――編書『日本の反知性主義』中の文章「反知性主義者たちの肖像」が2016年度2次試験の現代文第一問で出題されました
 この文章は日本の政治やメディアなどを覆う「反知性主義」について言及したものです。反知性主義とは言い換えると「居着くこと」です。さまざまな状況にそのつど最適な対応ができるように複雑なシステム系をつくっていくのが「成長」であり、本来の知性の働きなんだけど、今の日本では、人々は複雑なものを単純なものに縮減しようとしている。例えば本来複雑な原理や役割を持つ大学を、受験生や研究資金・就職先を確保できるかという単純な「市場価値」だけで判断している。

 どんなものにも新しい環境に対応して、絶えず自己を変化・複雑化させていく「生き物の理」があるはずなのに、「市場の要請に最適化する」という「定型」にはまり込んで、身動きできなくなっている。中にいる人間たちは必死になってあれこれ仕組みを変えているわけだから、スマートに環境に適応しているつもりかもしれないけれど、端から見ると、ひたすら単純化・愚鈍化しているようにしか見えない。

 

――出題された文章に「身体的に納得する」という言葉がある通り、武道家としての実感から身体的な学びの重要性も提言しています
 君たちもだって、例えば2人の友人が違うことを言ったとき、内容の整合性やエビデンスより「こいつ、いつも嘘つくから信用できないな」「こいつは自分の言葉に責任持つやつだから」という個人的な直感でどっちの話を信じるべきかを判断するでしょ?話すときの相手の熱意とか、話を聞くうちにワクワクしてくるような身体的感覚があると、内容が全く理解できなくても重要な話だ、と直感できる。
 僕はエマニュエル=レヴィナス先生(フランス哲学者)を師匠と仰いでいますが、最初のうちは著作をいくら読んでも、ほんとうは何が言いたいのかよくわからなかった。大変立派なことを述べていられるようなのだけれど、どこまで本気で言っているのか、わからなかった。言うことは立派だけれど、会ってみたらつまらない人間だったなんていう例はそれまでうんざりするほど見てきたからね。

 これは直接会うしかないと思ってフランスまで訪ねて行った。ドアベルを鳴らして、階段を上っていったら、レヴィナス先生は玄関で待ち受けていて、両手を拡げて迎えてくれた。その時に「この人は『本物』だ…」って身体的に確信できた。それまでもレヴィナス先生の著作を何冊か翻訳していたんだけど、実際に会った後は訳した文章の質が全く変わってしまった。先生の息づかいとか、体温とかがはっきり自分の身体に残ったから。

 

――武道では「修行」という概念も重要です
 武道の修行では、事前には修行の意味が開示されません。習う前の段階では、これから自分が何を学ぶことになるのか、それを語る「語彙」そのものがない。だから、やるしかない。修行を通じて自得する。修行をすることで、自分が何を習得したのかを事後的・回顧的に語れる。

 でも、今の教育はそうじゃないでしょ。事前に教育の達成目標も教育課程も全部が一望的に開示されている。大学のシラバスには、これを学ぶと何が得られるかがあらかじめ書いてある。それは教育内容が「商品」になっているから。商品なら消費者は購入する前にスペックの一覧的開示を要求して当然です。

 でも、そうすると、シラバス的な教育課程では、学ぶ前にその価値がすでに知られているものしか学ぶことができない。それはつまり、初学者の価値観が最後まで教育課程全体を支配するということです。子どもにでもわかる価値、金とか権力とか名声とか、そういうものを提供する教育「商品」だけが流通することになる。

 修行というのは、自分の価値観には包摂できない価値がこの世にあるという学びへのマインドセットのことです。だから、達成目標も習うことの内容もその価値も分からないが、何かに惹きつけられて学ぶ。学ぶうちに、学ぶ前は想像してもいなかった自分になっている。ブレイクスルーというのは、そのことです。

 みんな生物である以上、自分の殻を破って別のかたちに変容することをどこかで望んでいる。殻を脱ぎ捨てるように、自分のフレームワークから脱皮して生きてみたいと思っている。でも、今の学校教育では、子どもたちは、学歴や資格や免許などの実用的な「成果」を、学習努力という「代価」を支払って得るという商取引き的な枠組みでしか捉えられない。自己の枠組みそのものから離脱する「修行」というそれとは別の学びのプロセスがあることを知らない。

 

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