GRADUATE

2024年11月3日

考えるよりまず実践 ゴールは実践と決断の先にある 木津潤平さんインタビュー

 

 

 建築家であり、建物を持たない劇場「Landscape THEATRE」を立ち上げた木津潤平さん。舞台美術にひかれ、建築の奥深さを知り、自らの選択で人生を切り開いていった木津さんに、取り組んできた仕事や人生の選択について、受験生へのメッセージなどを聞いた。(取材・五十嵐崇人)

 

木津潤平(きづ・じゅんぺい)/96年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了、同年株式会社久米設計入社。2006年に株式会社木津潤平建築設計事務所を立ち上げ独立。24年4月にLandscape THEATRE第一弾プロジェクト391シアターを始動。

 

舞台美術に魅せられ東大へ

 

──東大を志望した理由は

 

 当時僕は愛知県の公立高校に通っていて、その頃から文化祭とか体育祭とか、集団でものを作るのが好きでした。そういったことの中心になっていたりして、皆でものを作るような仕事をしたいなと漠然と思っていたんです。ある時、本屋さんで朝倉摂(あさくらせつ)の舞台美術の写真集を見て、すごく衝撃を受けました。演劇を見たことはあったし、舞台美術の存在もなんとなく知っていたけれど、こんなにも本格的なのか、こんな世界があるんだと。僕も手を動かして絵を描いたりものを作ったりするのは好きだったので、その本を読んで、こういうものを作る仕事がしたいと思ったんです。

 

 ただ舞台美術を教える美術系の学校となると今よりも断然少なかったし、あっても私立で学費が高い。そこで学校で学ばずとも、学生演劇が盛んな東京に行って、演劇サークルに入って経験を積もうと考えたんです。僕は理系でしたから、総合大学に入って文系の人たちとも関わりながら演劇をやれる環境を探していました。そう絞って、東京なら早稲田大学か東京大学かなと考えましたね。早稲田には大きい演劇サークルがあって、そこからプロも輩出しているというのも知っていたし、東大は東大で駒場小劇場(以下、駒小)という場所があって、こちらも演劇が盛んだというのは知っていました。さらに東大には教養学部があって、理系であっても文系の授業が取れて、演劇をやる色々な仲間と出会えるんじゃないかという期待もありました。

 

 3年の9月の時点で東大はD判定で、頑張れば早稲田くらいかなという感じでした。でもそこで演劇のあまり盛んでない大学に入ってしまえば、演劇以外の道に進むしかなくなってしまう気がして、演劇をやるために東京の総合大学を受けたいと思いましたね。正直その頃は、早稲田に入れれば良いやと思っていたけれど、ダメもとで東大も受けますと担任に言ったら、その人が「面白いことを言うじゃないか」と笑ってくれて。なんだかそれで火がついたというか、僕が東大に行ったらそんなに面白いことになるのかと思って、だったら目指してみようと。そうして受けてみたら、ギリギリ受かったという感じです。

 

──周りに東大を受けようという人はいましたか。

 

 学校にはいたけど、僕の仲のいい人たちにはいませんでしたね。僕の高校は年に数人東大に行く人を出しているところでしたが、東大に行くような人たちとはあまり交流を持っていませんでした。3年の夏まではサッカー部で活動していたし、そのあとは9月の体育祭に向けて頑張ったので、9月から本腰入れて東大の対策を始めましたね。

 

──高校生の頃から漠然と将来の仕事について考えていたのですね

 

 そうですね、やっぱり集団のもの作りが好きで、映画監督を考えていた頃もありました。父親から建築はどうだと薦められたこともあったんですが、当時はあんな四角いビルを建てるだけの仕事の何が面白いんだと思って。思春期特有の親への反発もあって、深く考えることはありませんでした。ただ建築のことを言われたことはどこかに引っかかっていて、東大にも早稲田にも演劇学科はないから、舞台美術に近いところとして、大学では空間のデザインを学ぶ工学部の建築やデザインの学科に進むことにして、東大と早稲田の併願で受験しました。

 

──受験生時代に苦労したことはありますか。

 

 受験生時代は今よりも情報がなくて、赤本で過去問が手に入るくらいでしたけど、東大の問題は基礎を本質的にしっかりと理解していないと解けないという感覚を聞いていたかやっているうちに身につけたかしたんです。だからとにかく教科書に書いてあることを脚注から何から読み込んで、丸暗記ではなく、これはなぜこういう公式になっているのか、この定理はどこから来ているのかといった根本的な部分を体に染み込ませるようにしていました。スポーツをやっていたこともあって、基礎的な部分は地道な反復でしか身につかないし、基礎が身に付いたらそれを応用して色々なことができるようになるということを知っていたので、応用問題をいくつもやるというよりは、基礎的な問題にひたすら取り組んでいましたね。半年でできることなんて限られているので、やることを決めてしっかり取り組んでいました。

 

建築は「実体験も大切」 演劇と建築で二足のわらじへ

 

──大学で力を入れたことは

 

 大学では学校に通っていたというより駒小に通っていたという感じでしたね。授業の合間に駒小で作業したり、学生会館で練習したり、ずっと演劇にのめり込んでいました。自分のイメージした空間が、皆の力を借りて現実に立ち上がっていくことの面白さに取りつかれていました。ずっと現場にいたし、まず体を動かして実践して、それから考えるというスタンスでやっていて、この姿勢は建築学科に行ってからも役立っていたと思います。頭で考えるよりも実際にやってみて、ダメだったら考えるという姿勢は、演劇で培われました。これは今でも糧になっていますね。

 

──進学先は高校生の頃から揺るぎませんでしたか

 

 そうですね、初めはなんとなく建築だと思っていたけれど、ずっと駒小にいたので建築に触れる機会はありませんでした。ただ2年生の頃、安藤忠雄という建築家の個展をたまたま見に行って、そこで朝倉摂以来の第2の衝撃を受けました。建築ってこんなに自由なんだと。ただ四角いビルを建てるんじゃなく、頭の中で自由に思い描いたものを現実に定着させるというスタンスでの建築への向き合い方を知って、進振りは建築学科一本にしました。

 

──大学で印象に残っている授業は

 

 建築学科に入って3年生の頃かな、香山壽夫(こうやまひさお)先生の建築意匠講義の授業をとったんです。それは建築を構想する、空間を作るとはどういうことかといったような、建築の根本的な理論あるいは哲学の授業でした。

 

 その授業は比較的ちゃんと出ていたんですが、ある日先生が、今日は窓について話しますと言い出したんです。つまり光についてですね。古今東西の窓のあり方、窓から入ってくる光についての話で、その授業が一番印象に残っています。光と言えば明るさや照度のことだろう、と思っていたんですが、そんなもんじゃなかった。光といっても、天空から降り注ぐ光や、下から染み入る光、そのあり方というのがいろいろあるんです。その話が本当に素晴らしくて。建築の奥深さを思い知りました。先生は光について語る時、知識で語っていないんです。もちろん最初に知識も話すけれど、そこから先は自分の実体験として、まさに光に包まれるような体験をした、というように語るんです。知識ももちろん大事だけれど、実体験も大切で、それは自分が演劇で培った、頭で考えるよりまず実践という姿勢とどこか似通っている気がしました。建築の本質は、実体験として自分がとらえた空間を血肉にしていくことなんだなとなんとなく感じました。

 

 それで大学院も香山先生の研究室に入って、演劇もやりつつ、建築も極めてみようと。勉強すればするほど建築の奥深さにもひかれていきました。

 

 就職する時になって、その頃僕は学生演劇を離れてプロの劇団で仕事をするようになっていて、プロの舞台美術家になるという選択肢もあったんです。そこで香山先生に相談しました。舞台美術と建築、どちらもやりたいんですが選べませんと。すると先生の答えは思いの外明快で、建築家になりなさいと。ヨーロッパでは、建築家が舞台美術をやるのは昔からあるけれど、その逆はない。だからまずは建築家として修行して、その上で自分のやりたい舞台美術を思う存分やりなさいと言われました。そこで大手組織設計事務所である久米設計に入ることにして、昼間から夜までは会社で働いて、夜中の2時頃から演劇の打ち合わせをしに行く、というような生活を20代の頃はしていました。

 

──久米設計で得られたものは

 

 久米設計はとても良い会社でした。僕が久米設計を選んだのは、建築への愛を感じたからです。久米設計は自分たちが設計した自社ビルを拠点にしていて、そのビルには真ん中にどーんと吹き抜けがあって、その周りで皆がチームとして働くという理念が建築に表れていて、そのスタンスに感動して入社しました。他社はテナントとして場所を借りているところが多かったので、自分たちの働く場所を大切にしている久米設計の方に魅力を感じました。入ってみたら、一人一人が建築の設計に対してきちんと向き合っていて、だけど互いの意見を尊重しながら、若造の意見も聞いてくれる会社でした。非常に活気と自由さがあってよかったですね。僕は自由さも求めていて、というのも建築と演劇の二足のわらじを認めてもらえる会社じゃないといけなかったので。当時の上司には、勤務が終わったら演劇の活動をしているというのは伝えていたんですが、それを面白がってくれて、応援してくれました。

 

 演劇に関してはプロの劇団で自らやっていく状態だったのですが、建築はというと、大学と大学院で6年学んだところで設計なんていきなりできるもんじゃなくて。あらゆることを仕事をしながら覚えていかないと、建物一棟を自分で一から建てるのなんて10年はかかってしまいます。だから給料をもらいながら勉強させてもらえたと考えると、大学の研究室に近い感覚で、非常にありがたい環境だったと思います。

 

「誰かのための居場所を」建築家としての信念

 

──久米設計に入社してから10年後、自分の設計事務所を立ち上げることになりましたが、立ち上げに際して迷いなどはありましたか

 

 ありました。久米設計は、環境としてはとてもありがたかったんだけれど、どこか建築の設計というものに心底夢中になれていない自分もいて。仕事としては面白いんだけれど、自信や信念みたいなものもなかったですね。転職を考えたこともありましたが、演劇だけで食べていけるほど甘くはないので、会社を辞めるわけにもいかずに悩んでいました。

 

 もっと建築は面白いはずではと悶々としていたんですが、その頃たまたま知り合いから個人的な仕事を受けることになりました。その人は父の親友の奥さんで、夫が亡くなったからそのお墓を作ってほしいとのことでした。そのご夫婦には子供がいなくて、僕はとてもかわいがってもらっていました。父の親友のおじさんが、ちょうど僕が悩んでいた頃に亡くなってしまって、久しぶりに顔を出しに行ったのですが、亡くなって1年経つのにお墓がありませんでした。奥さんは、お墓なんて作ってしまえば、本当に夫とお別れしてしまったような気がして、悲しくて悲しくて作れないとのことでした。でも親戚からは、一周忌なのにお墓がないなんてあり得ないと怒られて、困っていたんですね。それで「潤平君に作ってもらえたらいいのにね」と言われて、僕は反射的に承諾しました。それからお墓のデザインをすることになったのですが、建築家として引き受けたというより、かわいがってくれたおじさんのために引き受けたんです。

 

 すぐに案は出てきました。名前を彫っただけで加工を施さない大きな石を地面に埋めて、その周りをおじさんが好きだったハーブで囲み、その手前にもう一つ小さな石を置いただけのものです。この仕事はとても充実したものでした。奥さんはとても喜んでくれたのですが、これは建築家の仕事としてはどうなんだとも思いました。ほとんどデザインしてないので。たまたま僕がデザインしたそのお墓の数軒先に、建築家がデザインしたお墓が立っていたんです。クリスチャンの方のお墓なんですが、それがまあ格好良くて。石が幾何学的に積み上がっていて、石と石の隙間を覗くと十字架が浮かび上がるようなものでした。やっぱり建築家は違うなと思いましたね。

 

 ところがお墓が出来上がった時に、奥さんからこんな話を聞きました。夫はサラリーマンで、引退する前に亡くなったのだけれど、引退した後の夢があって、それはイタリアに渡って建築家になることなのよ、と。そのおじさんは東大出身で、直前まで建築学科に行こうか悩んだけれど、自分には才能がないからと諦めてエンジニアになった人でした。そのおじさんがもし建築家になっていたら、自分のお墓は自らデザインしたでしょう。でも実際にそのお墓を作ったのは僕で、じゃあ何が正解だったのかと考えました。おじさんがお墓をデザインするとしたら、自分の記念碑を作るわけじゃなくて、自分がこの世に残してしまった、悲しみに暮れる妻のための居場所を作るだろうなと。ああそうか、建築家というのは自分のためではなくて、誰かのために居場所を作る職業なのか。であれば、自分が作ったこのお墓は間違っていない。僕は悲しんでいる奥さんの居場所になればいいなと思って、余計なデザインはしないで、おじさんと奥さんが各々腰かけられる石が二つあるのがふさわしいだろうと考えていました。

 

 誰かのための居場所を作る。これが建築家としての一つの正しいあり方なのだとしたら、自分は建築家をやれる。建築家として、誰かのための居場所を作るという理念のもとで仕事をするんだと、答えが見つかった瞬間でした。久米設計の公共施設関連の仕事は、打ち合わせも行政の担当者とするし、自分のする仕事が誰のための空間なのかが見えづらかったんです。やっていてもワクワクしませんでした。誰がその建物を使うのか、自分はそれが目の前に見えないとモチベーションにつながらないんです。もっと規模は小さくていいから、誰かのために、その相手が見える仕事がしたい。それにはこの大きな会社の一員では難しいから、36歳で独立を決意しました。

 

2006年、日本建築学会作品選奨の授賞式にて(写真は木津さん提供)

 

 独立を決めた頃演劇はというと、所属していた劇団がパリで公演を行うことになって、僕も会社を辞めてすぐだったので、パリに渡って仕事をしました。まさにこれから、舞台の仕事と建築の仕事を両方自由にできるという時だったのですが、なんとその劇団が活動を休止してしまったんです。その劇団を率いていた宮城さんという方が、SPACという静岡の県立劇団の総合芸術監督に抜擢されたんです。だから個人でやっているプライベートの劇団は休止します、と。僕は宮城さんについて行って、その静岡の劇団の専属の美術家になるかどうか、独立早々悩みました。ただ当時、僕たちがやっていたのは既存の劇場ではない場所で上演空間を一から作って公演を行うもので、それが自分にとってはすごく面白かったんです。静岡の劇団は、専用の劇場を幾つも持っていて、日本ではとても恵まれた劇団なのですが、固定された劇場での舞台美術の仕事をあまりイメージできなくて、今更舞台の上だけデザインしろと言われても無理でした。建築家として演劇に関わるというスタンスが確立しつつありましたしね。結局宮城さんについて行くことはなかったんですが、彼に手紙を書いて「しばらく演劇の仕事から離れ、建築家としての仕事に専念します」と伝えました。香山先生の言葉も思い出されて、まだ建築家としての道を極めてないし、演劇からはしばらく離れて建築の仕事を頑張ろうと。それで建築設計事務所を立ち上げたんですが、しばらくはインテリアデザインの仕事が中心で、新築の建物の仕事がようやく完成した時には5年経っていました。その時にふと宮城さんのことを思い出したんです。独立してからそれまで建築の仕事としか向き合っていなかったので、その頃は演劇ももう一度やってみてもいいかなと思えていました。そうしたらちょうど宮城さんから連絡が来て、パリ公演までやったインドの叙事詩『マハーバーラタ』を再演するから、一緒にやらないかと。そこから演劇にも再び携わるようになって、今に至ります。

 

 今思い返すと、結果的に要所要所で決断したことが今の自分を作っていて。最初から計画したわけではないけれど、やっぱりその都度必死に考えて下した決断が今の自分につながっていて、自分が自分である限り、一貫したものにはなるかなと思います。18歳の自分は今の自分を少しも想像していなかったけれど、今までの選択は間違っていなかったと言えます。

 

──独立後は以前と仕事内容も変わってきましたか。

 

 そうですね。最初の仕事は、当時僕が時々通っていたバーの店主が、奥さんと花屋とカフェをやりたいとのことで、鎌倉で小さなお店をやったのが最初です。そのお店を見つけて、今度は小さなジェラート屋さんをやりたいと連絡が来て、それが次の仕事です。そうやって人や建物のつながりで設計の仕事を依頼していただいています。独立して、素敵なお施主様たちと出会い、直に話し合いともに空間を作っていくことが今の仕事の一番の魅力です。

 

4度目の18年 スタートはLandscape THEATRE設立

 

──Landscape THEATREを立ち上げたきっかけは

 

 宮城さんから『マハーバーラタ』の再演に誘われて、フランスのアヴィニョン演劇祭で石切場に野外劇場を作った時の経験が根底にあります。それ以前にも、その場所を活かした空間デザインをするというのはよくやっていましたが、アヴィニョンの時にはっきりと、その場所にあるランドスケープ、その場所の自然や歴史など、そういったものをそのまま取り込んだ演劇作品の持つパワーというか、絶対にそこでしか見られない時間や空間が与える感動を体感しました。普通の閉ざされた劇場でやる演劇ももちろん良いんだけれど、それとは違って、その場所の持つパワーを内包した作品は、お客さんに与える影響力が違うんです。僕は後者の方が圧倒的に好き。しかしそういった演劇になんと名前をつけようかと考えて、ランドスケープシアターと名付けました。その場所を活かした演劇としてランドスケープシアターを提唱していれば、そういった演劇の仕事や仲間が増えるかもしれないと思ってやってきました。

 

 去年54歳の誕生日を迎えたんですが、54歳は自分にとって節目の年だと前々から考えていたんです。僕は36歳で独立して、もっと前には18歳で演劇や建築の道を志した。ということは、18年の周期で節目が来ているから、次の節目は54歳だと、36歳の頃に決めていました。18年サイクルは割と誰もが通じるところはあると思っていて、まず18歳で、親元を離れて大学に行くというのはほとんどの人が経験していると思います。人は0歳から6歳までをずっと親元で過ごし、次の6年を小学校で過ごして友達がたくさんできて、次の3年は中学校、その次の3年は高校でそれぞれスキルアップしていきます。こういう6、6、3、3というサイクルは、人間が成長するにあたってちょうどいいサイクルなのかなと思っています。

 

 それこそ受験生が今直面しているのは、次の18年をどこから始めるかという問題で、とても重要なことだけれど、それはスタート地点がどこかというだけで、僕の考えでは2度目の18年、19歳から36歳までは修行期間です。大学で4年か6年学んだだけでは社会でやっていけないし、そこから12年くらいかけて、ようやく30代後半で一人前になるんです。そう考えると、大学はその修行期間の最初の4年か6年で、最初の18年間に当てはめると、小学校に上がるまでのよちよち歩きの期間なんです。その期間、僕は東大で過ごしてよかったと思っているけれど、そこから先をどう過ごすかが大事なわけで。少なくとも大学を卒業したくらいで答えが出るほど、人生は短くない。僕も36歳でやっと建築家を志し直しましたから。そう考えると気が楽になる気がします。

 

 36歳から54歳までは自分の道をひたすら突き進む期間だと思っていて、ピークを54歳の時に持っていけるように頑張ってきました。54歳になった時に、そこから先をどうしようと漠然と考えていたのですが、上に行けば行くほど、横に発信した時の影響力が大きくなるなと思っていたので、それまでひたすら上に登って、54歳で建物を持たない劇場であるランドスケープシアターという概念を色々な人に発信しようと思いました。建物を持たない劇場としてLandscape THEATREを立ち上げました、と宣言すれば、そこをランドスケープシアターとして使いたい人が相談しやすくなるんじゃないかと思って、その宣言を54歳でしました。これからの18年は、ランドスケープシアターをどれだけ広げられるかというライフワークに取り組むつもりです。

 

──Landscape THEATREの第一弾プロジェクトを神奈川県の藤沢の391街区で行ったのはなぜですか

 

 Landscape THEATREを立ち上げようと構想している時期と、住んでいる街である藤沢のフジサワ名店ビルが3年後に閉まるらしいという話を聞いた時期が同じくらいで。名店ビルがなくなってしまうなら、それまでの間に増えていくかもしれない空白のスペースを劇場にしてはどうかと思ったんです。Landscape THEATREと391街区の劇場化は、初めは別々のプロジェクトとして着想しました。それが、少しずつ仲間を増やし、391街区を劇場にしようとしている時にふと、これがLandscape THEATREの第一弾プロジェクトになる、と気付いたんです。自分のやっていることの説明が後からついてきました。ここでも「考えるよりまず実践」の姿勢が生かされましたね。とにかくLandscape THEATREと391街区の劇場化を同時に実践していたおかげで、ある時その二つが高次元で融合したんです。

 

 きちんと計画して、実践して、反省して次に生かすというやり方もあるんですが、僕の場合はやっぱり実践が先に来ます。計画してから行動すると、だいたい想定の8割くらい、及第点で終わってしまうんですが、自分のやりたいという気持ちに忠実に、そのモチベーションに従って行動していると、いつか「自分の目指しているゴールはここなのかな」という風に見えてくることがあります。そして見えたゴールに向かってさらに実践するんです。そういう時って、計画してから行動するよりも遥かに上まで行くことができるんですよね。

 

Landscape THEATRE第一弾プロジェクトの一環でフジサワ名店ビル6階に作られたグリーンルーム(撮影・五十嵐崇人)

 

──Landscape THEATREの第二弾以降のプロジェクトについて、既に構想などはあるのでしょうか。

 

 僕の目指しているところは、江ノ島での演劇祭です。江ノ島には弁天様が祀られていて、弁天様は芸能を司っているんです。だからあそこは芸能の聖地としても有名で、そんな場所で演劇祭をやりたいなと強く思っています。

 

 Landscape THEATREは劇場を持たないので、どこまでも広がっていけるんです。第一弾プロジェクトをやった藤沢を拠点にして、江ノ島まで広げて、島全体を一つの劇場にする。そして日本中、世界中からお客さんが見にきてくれて、あなたの街でもランドスケープシアターをやりませんか、という風にどんどん広がっていけばいいなと思っています。

 

──建築の仕事のやりがいをお教えください。

 

 建築家をやっていると、自分のデザインした空間で誰かがずっと過ごすことになります。新しい家に住むことにしたら、その人は生涯そこに住み続けるわけだし、赤ちゃんが産まれたらその子は大人になるまでそこで過ごします。長い期間をずっと一緒に過ごすなんていうのは、家族とか、子供とか奥さんとか、そういった人たちでないと難しいけれど、自分の作った空間がずっとその人に寄り添うというのには喜びを感じます。

 

 あとは、お客さんが常にポジティブな点も良いですね。人の大事な局面に立ち会う仕事はいくつかあると思います。それこそ医師や弁護士とか。そういった職業は、困っている人たちの力になってあげるものだけれど、建築家はお客さんの夢のお手伝いをする職業です。だからお客さんは皆明るいし、一緒に仕事をしていてとてもエネルギーをもらえます。

 

──最後に受験生へのメッセージをお願いします

 

 18年サイクルで考えると大学はあくまでスタート地点に過ぎません。大きな視点で物事を捉えて、詰めて考え過ぎないでください。と同時に、目の前のことに集中することも必要です。自分の可能性を信じ切ること。僕も受験の時は、根拠もなくいけるんじゃないかと思っていましたが、この大学に行けるか行けないかではなく、たとえ行けなくても大丈夫、と自信を持つことが大事です。そうすれば、自分のやっていることが正しいと思えて、集中できると思います。大学受験はイメージした自分になることのトレーニングと考えると、悪いものでもない気がします。頑張ってください。

 

今ここにしかない価値を 391シアターナツマツリ開催

 

 2024年8月17日、Landscape THEATRE設立元年の夏に391街区のフジサワ名店ビルにて「ランドスケープシアター元年8月17日~391シアター ナツマツリ」が開催された。Landscape THEATREが主催するこのイベントでは、藤沢を劇場化する「Fujisawaランドスケープ構想」のプレゼンテーションなどさまざまな催しが行われ、にぎわいを見せた。

 

 イベントは午後から行われ、まずはアーティストたくみちゃんによるワークショップからスタート。凹凸のある面に紙を当て、その上から画材でこすって模様を浮かび上がらせるフロッタージュの体験会だ。参加者は配られた紙と画材で、床やエレベーターのボタン、置いてある鉢植えなど、名店ビル内のあらゆる凹凸で模様を描いていった。参加者の作品が集まると、それを鑑賞し終えた後、それらが表象するイメージをもとにたくみちゃんがダンスを構築、披露した。

 

 ワークショップと並行して、木津さんは「Fujisawaランドスケープ構想」のプレゼンテーションに臨んだ。フランスのアヴィニョンで上演した『マハーバーラタ』での体験や、Landscape THEATRE第一弾プロジェクト「391 THEATRE Project」の詳細などが発表された。物語、観客、場所。この3つは演劇に欠かせない要素で、相互に作用して作品が出来上がる。しかし現代演劇は閉ざされた劇場で上演されるため、物語と観客の関係が固定化され、場所という概念が失われている。物語があり、それをふさわしい場所で上演し、観客に届けたい。その場所でしか、その時間でしか見ることのできない作品を作り、今、ここにしかない価値を伝えたいと木津さんは語る。江ノ島での演劇祭の構想も発表され、プレゼンテーションを聞いた人々と活発に意見を交わし、共にこれからの藤沢に期待を寄せた。

 

 17時からは、名店ビルに面したハゼの木広場でジャズセッションが開催され、心地良い音色が奏でられた。地元の方々に愛される名店ビルと391街区はランドスケープシアターとなり、多くの人を魅了していくだろう。

 

イベントで「Fujisawaランドスケープ構想」をプレゼンする木津さん(撮影・五十嵐崇人)
ハゼの木広場ではジャズセッションが披露され、にぎわいを見せた(撮影・五十嵐崇人)

 

【イベント『珠洲の話をしようよ、江の島で 〜民話編〜』開催のお知らせ】

Landscape THEATREは「さいはての朗読劇」と共に江の島での初イベントとなるチャリティートークを行います。

日時:11月16日(土)
[昼の部]13:00〜/[夜の部] 17:00〜(開場は30分前)

会場:江の島サムエル・コッキング苑 UMIYAMA GALLERY

詳細はこちらからご覧になれます。

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