PROFESSOR

2023年12月8日

「共創する」哲学:梶谷真司教授インタビュー

 

 「哲学」と聞いてどんな印象を思い浮かべるだろうか。小難しそう、何をやっているのかよく分からない、などと思う人も多いのではないだろうか。

 しかし、そんな哲学に対する価値観を旧来のものにするかのような、興味深いイベントが少しずつ広がっている。その名も哲学対話。今回は、哲学対話の旗手であり、現在まで幅広い場面でイベントを開催している梶谷真司教授(東大大学院総合文化研究科)に、哲学対話について話を聞いた。(取材・内田翔也)

 

「哲学」するって、なんだろう?─「哲学対話」に迫る

 

──まず、梶谷先生がこれまで行ってきた「哲学対話」の内容について教えてください

 

 とにかく簡単に言えば、「みんなで一緒に考える」というのが哲学対話です。哲学において「考える」というのは、一人でやる作業というイメージが割と強いと思います。人としゃべることはもちろんやらないわけではないけれど、議論や討論といったものとは別のくくりとして捉えられていて、おのおのの「考え」をディスカッションしているというイメージがあるのではないでしょうか。けれども、哲学対話は話自体が一つの考えるという行為に相当している。みんなで一つになって一つのことについて一緒に考える。一人一人で考えを提示して吟味するというより、みんなで筋道をたどっていくという感じです。

 

 これは実は、哲学の定義から言って別におかしなことではありません。プラトンも「哲学は自己との対話」というようなことを言っているように、哲学は基本的には「考える」ことの一形態。ただ、もちろん考えればなんでも哲学になるわけではなくて、哲学的な考え方というのは、自分が思っている前提を問い直したり、今までとは違う見方をしてみたり、そういう考え方が哲学というわけです。

逆に言えば、哲学するにはその考え方さえできればいいので、哲学対話は、最低限の「8つのルール」を設定した上で後は自由に行われます。それゆえに、幼稚園児から高齢者まで参加できるのが哲学対話の大きな特徴です。



──8つのルールとは。それを導入する意義とは

 

哲学対話の8つのルール

 

 色々書いているけど、根本的には「自分が思っている前提を問い直したり、今までとは違う見方をしてみたり」できるように添えられたものだと考えてください。哲学対話は、自分がやっている以外の場所ではちょっとルールが違うこともあったりするので、必ずしも自分のルールが全てというわけでもないです。私のルールに対して「これはおかしい」と言ってくるような人もいなくはないので(笑)。



──例えば「しゃべらなくていい」でしょうか



 そうですね。「しゃべってこそ対話だろ」という反対意見もやはりあります。でも、しゃべることへの抵抗感を何らかの形で感じている人は世の中にかなりいて、そういう人たちが「しゃべらないといけない」というプレッシャーを理由に参加を避ける場にはしたくない。また、しゃべりたいと全員が思っているわけではない場において「しゃべらなくてもいい」と言わないと、その場にいられなくなってしまう人もいる。逆に、「しゃべらなくていい」というルールをきっかけに、積極的にしゃべり出す人さえいる。つまり、このルールはそれによってしゃべるハードルを低くする効果があるのです。こんなふうに、全てのルールは、対話の場で参加者一人一人が自分の前提を疑う、自分の中で哲学的な考え方を発見するために用意されたものになります。



──一般的に言う「哲学」と「哲学対話」との違いは何でしょうか

 

 一般的に言われる「哲学」とは要は学問としての哲学のことだと思いますが、学問なのでそれに必要な素養、知識、方法、作法はやはり多少あります。哲学対話は誰でも参加できるものであり、最低限のルールさえ守ればそれでいいのです。そこが専門的知識や学問としての作法が必要な哲学とは大きく違うところで、哲学者があまり哲学対話に関心を向けてくれない理由もそこにあると思っています。彼らは自らの専門性をアイデンティティにしているため、それを不問とする哲学対話をあまり良く思わないのではないでしょうか。

 

 しかし、彼らの哲学が必ずしも、より哲学的というわけではないとも思います。哲学は「物事を根本から問い直す」ことだとよく言いますが、実際学問の場において扱われる「哲学」は、大抵偉大な哲学者たちが打ち出した哲学の中のカテゴリーに準拠し、多少の違いを持たせて自分の研究をするというものです。そして、多くの哲学者は、自分の研究している哲学の基礎的な部分について、あまり疑いません。そのようにして、先人の文脈の延長線上のみで語られる哲学は、具体性が欠け、現実社会とかけ離れたものになってしまいます。例えば「労働」や「他者」など抽象的な概念について非常に深い洞察をすることはあっても「仕事での失敗」や「子どもへの教育」「恋人との不和」などについて哲学者たちが扱うことはありません。一方で哲学対話は、より社会と密接な話題から出発できます。参加者個人の持つ、くだらないかもしれないけど、とても切実な問題から問い掛けが始まる。それはとても大きい長所だと思います。

 

人文科学の必要性とは─哲学の可能性を探る



──今のお話でも少し示唆されましたが、特に学問の場面において、哲学のみならず人文諸科学に不要論が叫ばれています。哲学は今日において、どんな意義を持ち得ますか

 

 人文科学は、成果物が直感的な形で必要なものとして捉えられる自然科学とは異なった性質を持つため、不要論が叫ばれてしまうように思います。しかし、個人の人生を成り立たせる思考や、法律などの制度、果ては資本主義や自由主義などのより大きな社会制度など、そういった枠の根幹には、何らかの人文社会的理念が存在します。極端にいってしまえば、社会が利益ばかりをむやみに追求する枠組みとして存在するとすれば、福祉制度などが廃止されたり、人々がブラックな環境で働かされ続けたりしてしまうかもしれません。「福祉とは何だろう」「働くって何だろう」と考えることは、社会をより良いものにするためにも必要であると思います。逆に、例えば哲学者たちも、「社会の役になんて立たなくていい」と開き直るのではなく、社会に役に立つという視座を捨てるべきではないようにも思います。ちなみに、哲学対話は参加者にそういった「ものを考えることの大切さ」にも気付いてほしいという思惑でやっている部分もあるのです。

 

──梶谷先生は、「高校生のための哲学サマーキャンプ」など、さまざまな哲学対話のイベントを行っていますが、その理由について、もう少し詳しくお聞かせください



 実は自分も、哲学対話に出会うまでは「哲学なんて役に立たなくていい」と言っている哲学者でした。哲学対話に出会ったのも偶然で、UTCP(共生のための国際哲学研究センター)とハワイ大学で比較思想の共同セミナーを行うため、ハワイに赴いたことがきっかけだったのです。そのとき、UTCPに寄付をしている上廣(うえひろ)倫理財団が、同じく彼らが支援していハワイの「子どもの哲学(p4c)」の見物を勧めてくれて、一度見てみようと高校と小学校に2日にわたって視察に行ったのです。それが非常に面白かったですね。「こんなに哲学は面白くできるのか」と驚嘆して、そこで重視されていたのが「対話」だったので、対話を主体とした哲学をやってみようと日本で展開したのが始まりです。

 

 ちなみに、「高校生のための哲学キャンプ」は、最初は上廣倫理財団がUTCPに寄付を行う上で、哲学オリンピックに協力を依頼したのが始まりなので、哲学対話が出発点ではないです。しかし、哲学対話も取り入れて、高校生同士が楽しく交流できる場にして、オンラインでも続けてきて今日まで至ります。

 

哲学対話の様子
哲学対話の様子。参加者が円になって対話をしているのがうかがえる。

 

──哲学対話のイベントで感じていることなどはありますか

 

 やっている上で思うのは、参加者が哲学対話を非常に楽しんでいることですね。また、参加者同士の関係が、たった1時間で赤の他人から親密なものになる様子を目の当たりにすると、やっていて良かったと思います。必ずしも全員が気付きを得たり、賢くなったりするわけではないのですが、同じテーマについて対話を通して考えたメンバーは絶対にみんな仲良くなることを数々のイベントを通して痛感しています。

 

──特に印象的な経験などはありますか



 宮崎の定時制高校に依頼され、哲学対話を開催したことは印象に残っています。定時制の高校においては、宿題や早起きなど普通科全日制の課す制度からあぶれてしまった子たちが主な生徒であり、通常、宿題もなければ校則もない。そして、先生たちは元不登校の生徒や、問題児のレッテルをかつて貼られた生徒たちにどう向き合えばいいかで切実に苦労していて、その中で哲学対話をやることで、先生と生徒の中で活気が生まれることが多いです。いじめや抑圧を経験し、名前と好きなことを聞くのですら難しい生徒たちと、その生徒たちに向き合うことに困難を抱えている先生たちの間が哲学対話によって取り持たれるのを目の当たりにすると、哲学対話に意味を見いだすことができて自分としても楽しいですね。

 

──哲学対話の展開などはありますか

 

 一つは婚活です。私は当初から哲学対話を婚活に取り入れることに面白さを感じています。

 

──婚活ですか(笑)

 

 そう、婚活(笑)。別に誰も哲学対話を婚活に取り入れようとなんてしないのだけれど、婚活が一番面白いと思っています。まだ数回しかやったことがないのですが、どの場も非常に盛り上がって、ただの婚活なのに勝手に二次会に行くという流れにさえなったりします。こんなこと普通の婚活パーティーではあり得ないわけですよ。それから、哲学対話が結婚に結び付くなんて誰も思い浮かべないところを、それがきっかけで結婚する人が増えるのであれば、さっきの話ではありませんが、結婚する人間の減っている現代の日本において、哲学は社会に貢献しているともいえますよね(笑)。



 それはさておき、他にも、地域コミュニティで哲学対話をすることが地域の人間関係の改善に役立つことなどもあります。全般として、一緒に話して考えるというたったそれだけの行為で、インクルーシヴな場を作ることができるのです。自分はそこに魅力を感じます。なので最近は「対話」に限らず、インクルーシヴな場を作る試みに挑戦しています。

 

──最近聞くようになった言葉ですが、「インクルーシヴ」とはどういうことでしょうか。今一度詳しくお聞かせください。

 

 例えばデザインの場では「インクルーシヴ・デザイン」をやっています。インクルーシヴ・デザインは、より多くの人が使いやすいデザインを志すユニバーサル・デザインが発展したようなもので、子どもや障害者など、さまざまな人がデザインに携わるという、過程の部分に重心を置いたものです。そして、ここにおいては哲学対話と非常に良く似た空気が醸成されます。つまり、学力や年齢、出自などに関係なくさまざまな人がいろいろな立場を超えて参画する場が形成されるのです。そのおかげか、インクルーシヴ・デザインに取り組んでいる人たちには、自分が哲学対話を通して持っていたのと似たような考えを持った人が非常に多いことに気付いたんですよ。それで、最近は手を動かしてものをつくるイベントなどを通して「対話がなくてもインクルーシヴな場は作れるのか」ということについて考えています。

 

インクルーシヴ・デザインを扱ったイベントの一例
インクルーシヴ・デザインを扱ったイベントの一例

 

──他にも、哲学対話をきっかけで今取り組んでいることはありますか

 

 文章講座があります。例えば哲学対話の要領で小論文や感想文のテーマについて話し合いをさせ、文章を書かせると、驚くほどみんな良い文章を書いてくれる。学校などにイベントのお願いを打診されるときなどは、哲学対話の要領で行いながら、作文という確かな成果物も出来上がる対話的文章講座が、学校という場に高い親和性を持っていて、面白いので最近よくやっています。それから、哲学対話を踏まえて文章の添削をするという方法は、教師の方達にとっても有意義です。

 

──どういうことでしょうか

 作文の添削って、往々にして赤い線で間違っていると先生が考える部分が直されるけれど、そうではなくて、「ここはどういうこと?」と問いかける形にする。それなら、国語の先生じゃなくても読んでいて疑問に思ったことを書けばいいわけで、生徒は自分の作文で分かりにくいところについて再考できる。何の理由も分からないままバツをつけられるよりずっと良い方法だと思いませんか。

 

──なるほど。そのように哲学対話を活用する方法もあるのですね

 

──ここまでありがとうございます。最後に、何か一言読者に向けてメッセージをいただけますでしょうか

 

 いろんな人と「議論」するのではなく、共に「考える」ことで開ける可能性と楽しさを体験しましょう。

 

梶谷真司(かじたに・しんじ)教授(東京大学教養学部総合文化研究科) 97年京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。帝京大学外国語学部准教授、東京大学大学院総合文化研究科准教授などを経て、15年より現職。

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