COLUMN 2020年6月29日

【論説空間】コロナ禍で理解は進むか 感染症数理モデルの活用

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、一躍国民の関心の的となった感染症数理モデル。一部メディアでその信頼性を疑問視する報道がなされるなど、日本での議論には混乱が見られた。感染症数理モデルの成り立ちや活用の意義、そして議論の混乱の背景について感染症などの数理モデルの開発・解析が専門の稲葉寿教授(東大大学院数理科学研究科)に語ってもらった。

(寄稿)

 

エイズ危機で発展

 

 今回の新型コロナウィルス感染症(COVID―19)の流行は、流行規模とその社会的影響からすると、1918年のスペイン・インフルエンザ、1980年代のエイズ以上になるであろう。一方で、流行に対抗する手段は非常に進化しているともいえる。スペイン・インフルエンザの場合は病原因子すら特定できなかったし、感染回避行動の数量的評価もできなかった。折から第一次世界大戦中であって、感染情報すらなかった。その70年後のエイズ危機となると、生命科学の進歩によって、感染因子の特定が多くの論争を引き起こしながらも短期間のうちに成功裏に行われると同時に、流行動向予測に数理モデルが大きな役割を果たすことになった。例えば、今回のコロナウィルスもそうだが、HIVでは潜伏期間にある感染者は抗体検査がなければ発見されないから、観測される発症者からどのようにして感染規模を推定するかという数学的問題が起きた。また性的な感染症であったために、ホスト人口の異質性は非常に高く、流行予測のモデルも古典的なモデルを超えて新しい発想が必要だった。体内のウィルス動態も観測可能になり、数理モデルが治験に利用された。先進諸国のまっただなかで発生したパンデミックであったために、欧米の多数の数理科学者がこれらの問題に取り組む中で、感染症数理モデルを利用した疫学的・医学的研究は飛躍的に発展したのである。

 

 HIV/AIDS流行から本格化した流行対策における数理モデル利用は、その後狂牛病、SARS、豚インフルエンザ、MERS、エボラ等の新興再興感染症の出現とともに発展し、世界における感染症対策の基本的ツールとして定着した。ところがそうした世界の状況は、日本では被害が比較的小さかったためか、一部の専門家だけに認識され、一般の人々はむろん、大学、学会や公衆衛生当局の注意を引くに至らなかった。そのために日本では感染症数理モデルの政策実装は大きく後れをとったのである。今回の流行において初めて感染症数理モデルの成果はマスメディアの報道するところとなり、専門外の研究者や一般の人々もまきこんだ激しい論争を引き起こすことになった。

 感染症の数理モデルは100年に及ぶ歴史があり、非常に多様であるが、マクロな流行動向を理解するための基本的なSIRモデルは、1920年代末から30年代にかけて、英国の内科医で感染症研究者であったマッケンドリックと物理化学者のケルマックによる一連の研究によってその基礎が築かれたため、ケルマック・マッケンドリックモデルとも呼ばれる。一般には単純な常微分方程式モデルのみが引用されるが、実は彼らは各状態における滞在時間構造も含むかなり一般的な偏微分方程式モデルを研究しており、その全貌が明らかになったのは70年代末から90年代にかけて数学者による感染症数理モデル研究が大発展してからのことである(図1・図2)。

 

(図1)1927年に現れた前期ケルマック・マッケンドリックモデルは人口再生産のない封鎖系における一回の感染症流行を記述している。S(t)は時刻tにおける感受性人口サイズ、i(t,τ)は感染からの経過時間(感染齢)τにおける感染人口密度、Rは回復人口サイズである。βは感染率、γは回復率であり、λは感染力を示す。βやγが感染齢に依存しない定数であれば、よく知られた常微分方程式系に還元される(図は稲葉教授提供)
(図2)1933年に現れた後期ケルマック・マッケンドリックモデルは、ホストの人口再生産を考慮した上で、一度回復したホストが感受性を保持するために再感染するという再帰的構造をもつ。これは長期にわたってホスト人口と共存するエンデミックな感染症流行を記述するモデルであった。これも偏微分方程式の境界値問題として定式化される(図は稲葉教授提供)

 

 SIRモデルでは、ホスト人口を感受性者、感染者、回復者という状態別に分けて相互作用を微分方程式として定式化するが、さらに潜伏期間や隔離状態等の状態遷移、年齢、性別、地域や滞在時間などの個体の異質性を考慮したより精密なモデルが考えられてきている。その定性的な性質を決めるキーパラメータは「基本再生産数」(R0と書かれる)である。この概念も新型コロナウィルス流行とともに急速に人口に膾炙することとなったが、その数学的な理論は過去30年にわたって進化してきており、単純なように見えて奥の深い概念である。しかし、言葉で定義すれば「すべてが感受性であるような集団に、少数の感染者が発生した場合に、典型的な感染者1人がその全感染性期間に再生産する二次感染者の平均数」である。これが1より大きいことが感染因子侵入による流行が起きる条件である、というのが感染症疫学において基本的な「閾値原理」である。有名な集団免疫理論はこの閾値原理に基づいているが、実は現実の人口はその感受性において多様であり、内的異質性を取り入れたR0の定量化は容易ではない。

 

 基本再生産数R0が決めているのは、対策も何もない自然状態での流行特性だ。一方で隔離やワクチン接種などの介入行為によって変動した環境における再生産数を、一般に「実効再生産数」と呼んで区別している。しかしこの言葉のもとに、いくつもの異なる再生産数概念が含まれていることに注意しなければならない。R0と同様に、長期的な流行動向を決定する実効再生産数もあるが、それは時間変動するデータの長期的な蓄積がなければ実際の値は計算できないから、予測的目的のためには外的に与えた想定のもとでシミュレーションを行うことになる。例えば、社会的距離政策(social distancing)としての「接触率8割減」というのもそのような想定計算の結果であろう。一方、パラメータが状況に応じて日々変わっていく現実においては、日々の発症例データからその時点で感染者が平均して何人の二次感染者を生み出しているかを示す短期的指標も計算されている。これが巷間で話題となっている「実効再生産数」である。その成り立ちからして長期的指標ではないが、これが長期間1よりも小さければ感染発生数は減衰していて、やがて流行が終えんに至ると予測することはできる。

 

議論の混乱、大学の責任は

 

 先に述べたように、現在ではこのような数学的指標を活用した防疫方法論は世界的な標準手段になっているが、日本ではつい最近プログラムが公開されるまで、政府専門家会議のデータ分析チームしか計算ができなかったために、数理モデルに基づく専門家会議の対策指針に少なからぬ疑問や批判が呈されることになった。そうした批判の多くは数理モデルへの初歩的な無理解に基づくか、科学的判断を超えた政治的ないし行政的責任との混同に基づくといえる。確かに、モデルの仮定が常に現実の多様性をとらえきれていないというのは事実であり、そうした数理モデルの限界や特性をふまえて判断していく必要があるが、モデルなしに対策するのはスピードメータのない車を運転するようなものである。

 

 しかしここで大学人として指摘しておきたいことは、そうした議論の混乱に対しては、日本のこれまでの大学のあり方にも大きな責任があるということである。本来であれば、こうした感染症数理データサイエンスを実践できるチームが主要な大学の公衆衛生学や社会医学系学科にそろっていて、各地域の需要に応え、相互に連携して科学的判断に基づく客観的な政策形成をリードするべきであった。社会・生命現象における数理モデル活用という基本的な課題に応じる研究教育体制を育ててこなかったことこそ、今回の未曾有の事態における議論に混迷をもたらしたという意味で、日本の大学アカデミズムの最大の反省点というべきであろう。それは、ウィルスの生物学的、医学的研究の質の高さとの対比においてより鮮明となる。そしてとりわけ国民が必要としていて、日本にはない学問分野があるとすれば、国立研究大学がまっさきにその課題に答えるべきだと考えるのは筆者ばかりではないだろう。

 

参考文献
H. Inaba, Age-Structured Population Dynamics in Demography and Epidemiology, Springer (2017)

 

稲葉 寿(いなば ひさし)教授(東京大学大学院数理科学研究科) 89年オランダ・ライデン大学でPh.D.取得。厚生省人口問題研究所(当時)世帯構造研究室長、東京大学大学院数理科学研究科准教授などを経て14年より現職。

この記事は2020年6月16日号から転載したものです。本紙では他にもオリジナルの記事を掲載しています。

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