イベント

2019年2月13日

東大生なら知っておきたい 50周年を機に振り返る、東大闘争の意義とは

 「大学って、学生の自由が確立されているよね」。そう当たり前に感じている人も多いかもしれない。しかし、東大闘争(東大紛争)が繰り広げられていた50年前には、必ずしもそうとは言えない状況だったことを、ご存知だろうか。

 1月10日に本郷キャンパスで開かれたイベント「〈討論集会〉東大闘争・確認書50年──社会と大学のあり方を問う」では、東大闘争の意義が改めて問われた。それは、50年後の現在を生きる我々今の学生にとっても無縁ではなかった。

(取材・小田泰成)



多くの学生が運動に立ち上がった

 

 まずは、司会を務めた柴田章氏(教養代表団⦅教養学部の学生の代表⦆、以下特記なき限り()内の役職は東大闘争当時のもの)の言葉を交えつつ、東大闘争の主な出来事を簡単に振り返りたい。

 戦後の東大は学生運動の拠点で、東大当局は学生運動を抑え込む姿勢を取ってきた。1960年代後半にはベトナム戦争への世界的反戦運動の影響もあり、大学以外でも市民によるさまざまな運動が大きく盛り上がっていた。

 こうした時代にあって、1968年1月末に医学部の学生・研修医が、研修医制度を巡って教授会と対立し、無期限ストライキを決行。6月15日には一部の医学部生が、大学本部のある安田講堂を占拠した。2日後、警察機動隊が本郷キャンパスに突入。これは東大当局の要請によるもので、衝撃的なものだった。これを受けて6月20日に「圧倒的な学生が立ち上がって」、10学部中8学部でのストライキと1万人規模の決起集会を挙行。この日、東大闘争が始まったとされる。

 

 東大当局の姿勢は硬直化したまま、10月11日には全学部無期限ストライキへ。11月1日の大河内一男総長の引責辞任や、過激な全学共闘会議(全共闘)とその他の学生との施設封鎖を巡る対立など紆余曲折を経て、1969年1月10日の確認書締結に至る。これは大河内総長辞任後、融和的な姿勢を見せた加藤一郎総長代行と、9割以上の学生を代表する七学部代表団との間で交わされたもので「全構成員による新しい大学自治の在り方が示」された画期的なものだった。成果を得た学生は自主的にストライキを解除。同年2月の入試こそ中止になったが、東大は再建へと向かった。

 

確認書締結を伝える東京大学新聞1969年1月13日号

 

 東大闘争参加者は当時から、考え方も、年齢も、学部も、教職員との関係も多種多様だった。東大を巣立った後に送った人生も十人十色だ。そこで第一部では、さまざまな問題関心を参加者共通のものにするために、3人の集会実行委員が問題提起をした。

 

強調された暴力的側面

 

 最初に登壇した弁護士の川人博さん(教養代表団)は、体調不良を感じさせない熱弁をふるった。東大闘争と、同時期にアメリカなどでも起こった学生運動を比較。東大闘争は特に参加学生の数が多く、大学当局との書面での合意までこぎつけている点を評価した。一方、日本では学生間の意見対立が暴力的なレベルまで発展し、それがメディアなどで強調されたことで、学生への世論の批判が高まったことも指摘。「他国では学生運動への肯定的評価が多い。特にドイツでは、学生運動のリーダーだったドゥチュケ氏の名前を冠した通りがあるほどだ」

 

東京大学新聞1968年1月20号では、機動隊の安田講堂突入を大きく伝えている

 

 東大闘争が川人さんに与えた影響は大きい。「大事なときには人々は立ち上がるんだ、と、人権活動に取り組む上での大いなる自信を与えてくれた」。現在川人さんは、前期教養課程で「法と社会と人権ゼミ」という自主ゼミを開講。今では多くの学生が利用しているこの自主ゼミ制度も、実は確認書で学生の自主活動が尊重されたことに起源を持つ。現在の東大やその構成員については「余計なことに手を出すあまり、本来の役割を全うできていないのではないか」と疑義を呈しつつ「今の若者の中には、私たちとは違う視点で新しい社会的活動・学問研究を進めている者も多い」と、前向きにスピーチを終えた。

 

非武装の態度が画期に

 

 続けて滑らかな口調で語りだしたのは、医師の三浦聡雄さん(民主化行動委員会議長)。東大闘争を自らの視点で、全共闘に焦点を絞りつつ振り返った。全共闘は1968年当時「学生の怒りや混乱に乗じて」東大の全学封鎖を志向。元々複数の党派の寄り合い所帯であり、議論で妥協案を出すと「お前、ひよるのか」(日和見的な態度を取ることを指す)と反論されるため、過激な方針が全共闘全体の方針になるのが常だったという。

 

 三浦さんは「全共闘に対抗する組織が必要」と考え、東大民主化行動委員会を立ち上げた。他組織とも連携を強め、1968年11月14日には駒場のバリケード封鎖に反対して非武装で座り込んだ。武装して襲いかかる全共闘を、周りで見ていた学生たちが怒って取り囲む。「互いの身体が密着するとヘルメット、角材は役に立たない。多勢に無勢の全共闘は武装解除されて解散した。その後、全共闘は急激にノンセクト(どの党派にも属さない人・団体)の支持を失い、孤立化が進んだ。東大闘争の局面を決定的に転換する関ヶ原となったのだ」

 

学生同士の衝突を伝える東京大学新聞1968年11月18日号

 

 やがて東大が再建される過程で、三浦さんたちは確認書に沿って、新たな民主的自治会の発足やカリキュラム改革などを進めた。現在は志を持つ仲間と、たとえその人が東大闘争当時の敵だったとしても、協力しているという。最後は医師らしく、参加者の多くを占める高齢者に向けて「体を鍛えておきましょう」とにこやかに呼び掛けた。

 

非暴力姿勢を教師生活に還元

 

 最後に登場した目良誠二郎さん(教育系大学院代表)は40年以上都内の私立中高一貫校で教えた中で、東大闘争の宿題を若い世代と一緒に解いてきたという。それは戦後民主主義と民主主義教育をどう発展させるか、何を何のためにどう学ぶのか、など多岐にわたる。

 

 宿題への答えの代表例が、元勤務校で確立した社会科カリキュラム「総合社会」だ。当時、社会科は、受験戦争の過熱の影響を受け、体系的な学習で事足りる「暗記科目」だと認識されていた。目良さんは、生徒たちが視野を広げ自分の頭で考えられるようになることを目指し、中3で全生徒が卒業論文を書くなど、問題を自ら提起し解決する形の学習を組み込んだ。東大闘争で暴力を目の当たりにした経験から、民主主義教育の精神に基づき、生徒に暴力を振るわない姿勢も貫いた。

 

 目良さんによれば、非暴力という言葉には本来「不服従のグローバル市民としての非暴力」という意味が込められており、日本国憲法9条にも通じるものだという。最近はそうした「非暴力」の運動に参加しているらしく「今も東大闘争の『宿題』を解き続けているのです」と、穏やかな声でスピーチを締めくくった。

 

 第2部ではより多くの参加者の発言が飛び交った。当時の思い出を熱く語る人から、東大闘争と科学技術体制との関係を指摘する人まで、発言内容はさまざま。ただ、東大闘争への思いの強さは、一貫して伝わってきた。今後は当事者たちによるエッセイ集の発刊なども予定されているという。

 

 イベントを通じて明らかになったのは、東大闘争の意義の多様性だろう。ただ現在の東大生との関連で言えば、やはり学生の自由が確立されたことは一つの大きな意義と言える。もちろん50年前と現在を一概に比べることはできないし、今は学生運動をやるような時代でもない。ただ、より良い大学・社会の在り方を目指して行動していた50年前の学生の積極的な姿勢だけは、現在にも通じていることを祈りたい。

タグから記事を検索


東京大学新聞社からのお知らせ


recruit

   
           
                             
TOPに戻る