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2020年3月31日

小田部胤久×角野隼斗×園田涼×野村誠 「音楽に神は必要か」小社主催シンポジウムレポート 【後編】

 もし音楽に必要とされる感性やひらめきを「神」が与えたものとするならば、「神」を持たない人工知能(AI)に音楽は作れるのか。こうした関心から2019年11月22日、東京大学新聞社はピティナ・ピアノコンペティション協賛の下、学術シンポジウム「音楽に神は必要か」を駒場Ⅰキャンパスで主催した。シンポジウムは各登壇者の発表、全体討論、コンサートの3部構成。記事後編では全体討論の模様をお伝えする。

(構成・円光門 撮影・村松光太朗、山中亮人)

 

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 全体討論は、角野隼斗氏がプレゼン中に提起した問題に対する意見を、モデレーターの円光門が登壇者全員に尋ねるところから始まった。

 

 

 

「判定する主体は人間でありAIではない」

 

円光 「AIが作る曲に感動するということは、我々が音そのものに感動しているということであるから、作り手に感性は必要ないのではないか」。角野さんがプレゼンテーションで提起したこの問いに関して、皆さんはどう思われますか。まず小田部先生からお願いいたします。

 

小田部 これはいくつかの問題を含んでいます。確かに音を並べているのはAIですけれども、そのような並べ方をするプログラムを作っているのはまさに人間です。それに、どういうものを聞くと人は感動するのかという価値判断が先行しますから、その価値判断なくして感動的なものが作れるのかという話ではないのですよね。「作り手が感情を持つかどうか」ではなく「人にどういう効果を与えるのか」という問題が、古来の弁論術が取り組んできたことでした。AIに関しても、作り手が感情を持たずとも聞き手に感情を引き起こすことができれば制作術としては成功であるわけです。それを判定する主体は人間でありAIではない。このことをまず押さえておくべきだと思います。

 

園田 僕は今の話を聞いてどんどん分からなくなってきたのですが、ある人は感動したけれども、私はそうではなかったということがあるので、結局どこかでコンセンサスを取らないといけないですよね。その辺りの事情はどうなっているのでしょう。角野くんはご存じだったりしますか?

 

 

 

 

角野 AI作品の価値判断に関してどうコンセンサスを取るかということですか?

 

園田 そう、例えば極端な話、1人の人間の価値判断を基準にAIをプログラミングしているのか、あるいは100人くらいいて90人が感動したらこういうことだという風にプログラムを進めているのか。

 

角野 論文で発表する時には、AIがどのくらいの性能を持つかということは、客観的に何百人とかの規模で実験をして判断しなければいけませんが、その前に、おそらくAIの製作者とかが自分としてこれが良いか悪いかを判断していることはあると思います。ただ、どういうものが良い悪いというのは人によって違うとおっしゃっていたことは、本当にその通りで、だからこそ芸術におけるコンクールは難しいわけです。とはいえ、ある程度のコンセンサスはあるわけで、それはどういうものかというと、聞きなじみのあるものってやっぱり人は普通に良いと思いますよね。ただそこを離れすぎると「何だこれは!」となるわけですよ。ドビュッシーとかゴッホもきっと最初はそうで。ただ今の人間は、彼らの作品は素晴らしいと思うじゃないですか。それは慣れたという話だけであって、要はどれだけ既存の枠から慎重に踏み出すかというところは、人間がそれまでどのような音楽に触れてきたかに依存する問題だなと思います。

 

「AIの価値観に打ちのめされても音楽をつくっていきたい」

 

円光 野村さんはいかがでしょうか?

 

野村 とりあえずAIと人間をそんなに区別しなくても良いのかなと。例えば、工事現場で大工さんがトントンとやっている音の重なりが僕にとって非常に面白い音楽である場合があります。しかし、多分その大工さん達はリズム合奏をしているつもりはないですよね。個々の大工さんの熟練した身のこなしから生まれるリズムが、偶然に複雑に絡み合った結果を、鑑賞者としての僕は「複雑なリズムアンサンブル」と受け取り感動する。しかし、AIにしても大工さんにしても「感動させよう」という意図はないのに、受け手がそこに特別な音楽体験を見いだしたことで、それが新しい作品として成立し得る。

 

 

 

 また「音」という言葉ですが、小田部先生が基調講演でおっしゃったTonkunstのTonは、英語のtoneと同じですよね。でもtoneと言ってもsoundと言ってもnoiseと言っても、日本語は全部「音」になります。音程がはっきりしている楽器のような音、楽音もあれば、楽音とは呼ばれないけれどもsoundと言われるような音もあれば、西洋人はそれはnoiseだと分類する騒音もある。ただ、我々の使っている日本語は結構そこを曖昧にして、だからジョン・ケージは「音楽は音である」と定義するのだけど、その「音」と言うのとTonkunstのTonとは、日本語にすると同じ「音」なんですね。AIが楽音としての、音符としての音を構成していくのか、もっといろんな物理的な音を扱っていくのか。音というのは複雑な現象なので、分析していくのは難しいことではあると思いますが、AIがそのようにいろいろやってくれて、まだ僕たちが体験したこともないような面白い音楽に出会えたら素晴らしいなと思うわけです。

 

 バッハは神と対話したすごい作曲家だとか言われたりしますけど、バッハなんか軽々と超えるような音楽をAIが作ったら、人間はもうちょっとがんばる気になるのではないでしょうか。バッハの作品もそこら辺に転がっている人間の1人がやっていたことで、あれが最高峰と思って作っている限りは、バッハを超えられっこないんですよね。でもAIがいろいろやったら、今はまだ無理かもしれないけど、バッハの曲は子どもが作った曲ですねと言われるような、新しい曲が生まれる時代が来て、僕たちはそれを評価するかもしれない。あるいはAIが作る音楽がもう複雑過ぎて、AIにしか良さが分からない、人間はもうついていけない、という状況になるかもしれない。でも「人間が感動する音楽」という前提さえも取っ払われた音楽に、僕は生きているうちに出会いたいですね。AIの価値観に打ちのめされても音楽をつくっていきたい。

 

「僕たち人間が耳を鍛えないといけない」

 

円光 確かに誤解を恐れずに言うと、バッハの対位法的な作曲手法はある意味パターンの組み合わせでもあるわけで、機械的な様相を持っていますよね。先ほど園田さんがおっしゃっていた、完全5度の連続は和声法の教科書では禁則とされているという件ですが、音楽理論の基本である和声法はある種ビックデータによる成果だといえます。最初から体系として提示されていたのではなくて、西洋の音楽家が積み重ねてきた試行錯誤の結果、きれいな和声進行の型が提示されたわけですから。

 

 この点を考えると、AIなら、それまでのパターン化されたものをうまく使って、コンスタントに心地良い音楽を提供してくれるかもしれない。むしろ我々が目指すべき新しい音楽、人間だからできる音楽というのは、そこから逸脱するものではないだろうかと考えるのですが、園田さん、いかがでしょうか。

 

 

 

園田 結局、聞いて変だな、音楽的に気持ち悪いなっていうものの積み重ねが、後になって音楽理論として編成されている。そう考えた時に、やはり僕たち人間が耳を鍛えないといけないなとすごく思うんですよ。僕はたまにオーケストラのアレンジをやらせてもらいますけど、別に本で読んでいなくても、和声法で禁則とされているような音の動きを自分で書くことはあまりないですし、良く出来ているとされる音楽とか、ずっと残り続けている音楽を聞くことによって、耳は育っていくのだろう。皆さんの話を聞いて、そんなことを僕は思っていました。

 

 対位法に関しても、別にあれはバッハの専売特許ではなくて、例えばジャズでもビル・エバンスっていうピアニストがいますけど、彼の弾くハーモニーにはバッハらしい対位法がたくさんあります。ジャズというアドリブの音楽の中でも、これ即興でよく生み出したな、というようなハーモニーの流れとかがあるわけですよね。

 

「AIは学習の過程が人間と全く違うから面白い」

 

円光 ありがとうございます。角野さん、一般的にAIは創造性の対極にあるものだと位置付けられがちですが、あえてAIや機械学習に創造性を見いだすとしたら、どの辺りでしょうか。

 

角野 そうですね、統計に基づいて最も心地よいものを選択させる方法と、人間の思い付かないようなものを思い付かせるインスピレーションのツールとして使うという方法の、二種類の考え方があると思います。例えば、これは絵の分野の話ですが、最近AIによる画像の生成という分野が結構はやっています。すごく高精度な、存在していない人間の写真を自動で作り出すことができるようになってきました。

 

 そこに至るまでの学習過程に着目してみると、最初はノイズみたいな真っ黒な画像しか出さないのですが、だんだんと顔になってくるんですよね。その間に出される画像がすごく不気味で、人間にはとても描けないようなものができるのです。AIは学習の過程が人間と全く違うから面白い。その中間地点で何かインスピレーションを得られる可能性があるという見方はできるでしょうし、先ほど野村さんがおっしゃったアリクイに弾かせるといったことも同じだと思うんですね。何をするか良く分からない人間以外の主体や機械にとりあえず素材を投げてみて、出力されたものが面白かったら使うみたいな。

 

 

 

 

「個人はある文脈の中にいて初めて個人として表れる」

 

円光 AIなどの人間的感性を持たない主体による作曲について話す時にはどうしても、受け手の問題に論が集中しますよね。野村さんの大工の金づちの話も、それをどう解釈するかという受け手の問題が浮上します。では作り手の役割や感性、自律的意思はどのように考えれば良いのでしょうか。人間はまずはAIに頼ってみてその後どうするか考えれば良い、という話に果たしてなってしまうのか。小田部先生、いかがでしょうか。

 

小田部 天才と言われるような個人が1人で作品を作る。これが近代的な芸術観のモデルですが、実はその個人はある文脈の中にいて初めて個人として表れるんですよね。だから確かにこの人が作ったのだけど、その人の独創的な作品は、名も忘れられてしまったようなさまざまな作曲家の作品やさまざまなコンテクストがあったからこそ作られていったわけです。だから、そういった個人と文脈を両方視野に入れながら考える必要がある。AIはまさにそうであって、それに関わる人々がどんな文脈に置かれているのかということをまず、考えていく必要があるだろう。つまりただ「AIがあって何か作っていますよ」と考えるのではない視点が必要になってくると思います。

 

 

 

円光 まだお聞きしたいことは多々ありますが、残念ながら時間になってしまいました。皆さん、本当にありがとうございました。

 この後、約15分の休憩を挟み角野隼斗氏、園田涼氏、野村誠氏によるコンサートが始まった。最後は3名によるセッションで会場は大いに盛り上がり、終演を迎えた。

 

 

 

 

 

小田部胤久(人文社会系研究科教授)

東京大学文学部にて美学芸術学を学ぶ。同大学院人文科学研究科、ならびにハンブルク大学で研究に従事。1988年、神戸大学文学部助教授、1996年、東京大学大学院人文社会系研究科助教授、2007年、同教授、現在にいたる。美学会会長、日本18世紀学会代表幹事、日本シェリング協会会長、国際美学連盟副事務局長などを歴任。2007年、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞(ドイツ連邦共和国)。

 

角野隼斗(ピアニスト)

東京大学大学院情報理工学系研究科在籍(2020年3月現在)。18年ピティナピアノコンペティション特級グランプリ、及び文部科学大臣賞、スタインウェイ賞の受賞。19年リヨン国際ピアノコンクール第3位。 17年ショパン国際コンクール in ASIA 大学・一般部門アジア大会にて金賞受賞、その他受賞多数。これまでに国立ブラショフ・フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、千葉交響楽団等と共演。20 年には東京大学総長大賞を受賞。

 

園田涼(作曲家=ピアニスト)

東京大学文学部卒。ゲーム音楽の提供、TBSのソロ・ヴォーカリスト・コンペティション番組「Sing!Sing!Sing!」審査員、同局「音楽の日」ハウスバンドピアニスト、高橋洋子×京都市交響楽団による「残酷な天使のテーゼ」オーケストラ編曲、JUNHO(from 2PM)バンドマスター、GACKT×東京フィルハーモニー交響楽団「華麗なるクラシックの夕べ」ピアニスト、フジテレビ「ヨルタモリ」オープニング・エンディングテーマの演奏、クレモンティーヌら他のアーティストへの楽曲提供など、幅広い活動を行っている。

 

野村誠(現代作曲家)

京都大学理学部卒。94年にBritish Councilの招聘でヨーク大学大学院で1年間共同作曲の研究。京都女子大学専任講師、インドネシア国立芸術大学客員教授、京都造形芸術大学客員教授などを経て、現在、日本センチュリー交響楽団コミュニティプログラムディレクター。主な活動に、東南アジアの作曲家との原発をめぐる共同作曲「魚も核武装する」、香港の知的障害者施設での3カ月のレジデンス、日英共同のコミュニティ音楽劇「Whaletone Opera」、NHKの音楽番組「あいのて」の監修と出演など。

 

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