インタビュー

2014年11月6日

リクルートが生まれた場所、東京大学新聞 リクルート創業者 江副浩正氏の「唯一の上司」

20141016日、株式会社リクルートホールディングスは今年最大の上場をはたした。リクルート創業者である江副浩正氏は、在学中に東京大学新聞で広告営業を始め、その仕事を発展させる形で卒業後に起業した。昨年2月に逝去した江副氏「唯一の上司」、東京大学新聞OBの天野勝文氏に、リクルートの原点となった東京大学新聞時代の江副氏の話を聞いた。

天野1.jpg −−1016日、1961年に創業したリクルートは上場をはたしました。

3人で始めたベンチャービジネスが、50数年後に従業員3万人、売上高1兆2千億円、時価総額1兆8千億円の巨大企業に大化けするとは、全く想像できませんでした。おとなしい、ひ弱な感じさえした東大生時代の江副君が…という思いは今でもあります。

−−天野さんと江副さんの出会いを教えていただけますか?

江副君の自伝『かもめが翔んだ日』に東大新聞との出会いが描かれています。江副君が東大に入学したのが1955年でした。翌1956年、彼が大学2年生の6月に東大学生新聞に初めて顔を出しました。面談したのは私ではなく、2年先輩で当時、マネージャー役をやっていた斧田大公望さんでした。斧田さんの勧めで江副君は広告取りの仕事を始めました。

その翌年、学生サークルとしての「東京大学学生新聞会」は経営破綻し、『週刊朝日』編集長扇谷正造さんほかOBの協力を受け、「財団法人・東京大学新聞社」として再建することになります。この移行期に私は大学4年生、そして卒業後の2年間は専従職員として斧田さんの役回りを引き継ぎました。

この時に私は江副君に「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」と言ったと、『かもめが翔んだ日』には書かれています。江副君との会話の中で「新聞は下から読め」「広告もニュースだ」などと言ったかもしれませんが、実は私はまったく覚えていないのです。要するに、「編集記事より広告をチェックせよ」と言ったつもりだったのですが、江副君はそれを忠実に実行したのでしょう。

−−江副さんが広告営業をする中で、企業の就職情報に着目したのはいつ頃でしょうか?

彼が大学4年生の時に、1958年6月18日号に載った、丸紅飯田株式会社の就職説明会が最初の広告だと思います。彼は学内の掲示板でこの掲示を見つけ、「これだ!」と思ったのでしょう。すぐに東京支店の人事課を訪ね、「東大新聞に説明会の告知広告を掲載していただけないか」と営業し、広告を取ってきました。

企業の採用広告に大きなチャンスがあると分かったのか、翌週の1958年6月25日号には、既に6社もの広告を獲得していました。

天野2.jpg

1958年6月18日号に掲載されている、江副氏が初めて取ってきた突き出し広告。わずか数センチ四方に満たないが、これがリクルートの原点となる広告だった。(『東京大学新聞 第3巻』不二出版より)

天野3.jpg1958年6月25日号に掲載されている広告(『東京大学新聞 第3巻』不二出版より)

−−江副さんが、これだけ営業の結果を出すことができた秘訣はどこにあったのでしょうか?

実は当時の東大新聞には、江副君以外にも数人の広告営業マンがいました。しかし、彼の成績は群を抜いていました。非常に効率良く働く術を、自ら発見し身につけていました。

彼がすごかったのは、いち早く「日本企業の横並び構造」を見抜いていたことです。大企業と呼ばれる企業の中から1社でも、とりわけトップ企業の営業に成功すれば、他社も「向こうが出すならうちも出そう」と言って広告を獲得しやすいことに気づいていました。関西の十大紡績会社や、八幡・富士・川崎といった製鉄会社に同時に営業をかけていました。

また、当時、東大の学生は東京に就職してしまう学生が多く、関西の企業に就職する学生は少数でした。そこに目をつけ、関西の企業を中心に、広告営業をするようになりました。実際、住友商事・伊藤忠商事・住友銀行・三和銀行・川崎製鉄などの求人告知広告が多かったです。

他にも、「最終的な決定権を持つ人を見つけて話をする」など、営業センスは誰にも負けないものがありました。

−−江副さんは、卒業後も就職せずに東京大学新聞に留まり仕事を続けたと、自著に書かれています。

『かもめが翔んだ日』の中では、1年留年した江副君は1960年3月、大学卒業にあたって私に「卒業はしますが、これまで通り仕事をさせてくれませんか」と持ちかけ、私が「そうしてもらえば、こちらもありがたい」と答えたということになっていますが、これは彼の思い違いだと思います。当時、私はすでに毎日新聞社に入社しており、こうした事柄については何ら決定権を持っていませんでした。たぶん、常務理事の伊藤成彦さんと話し合ったと思います。ただ、毎日入社後も東京本社勤務だったので、東大新聞にはよく出入りしていましたので、そうした際に相談を受けたかもしれません。この話も私にはまったく記憶にないことですが。

その時の大卒初任給が1万円の時代、『かもめが翔んだ日』によれば、東大在学中に就職シーズンだけだったが月20万円、卒業前後は年に60万円近い収入だったといいます。情報がお金になることを、身を持って実感していたのだと思います。

−−その後、江副さんは大学新聞の仕事を発展させる形で、いまのリクルートの前身となる会社を創業しました。

卒業時には、後にリクルート創業メンバーのひとりとなる東大新聞職員だった鶴岡公氏らも加え、教育学部の先輩だった森稔氏から森ビルの屋上の物置小屋を借り、事業を本格的に開始します。1960年10月には株式会社大学広告を設立しました。

転機になったのは、やはり教育学部の先輩である芝祐順さんが、留学先のアメリカから就職情報ガイドブック『キャリア』誌を送ってきたことでしょう。本一冊まるまる、就職情報で埋めてしてしまう。広告だけで情報誌が作れるということに気づいた瞬間だったと思います。

あるリクルート幹部から「天野さんなかりせばリクルートなし」と言われたことがありますが、私に言わせれば「芝さんなかりせばリクルートなし」だったと思います。

−−その後の江副さんとのご関係を教えてください。

私はその後、毎日新聞で社会部記者、論説委員などを務めましたが、いわゆる「リクルート事件」の際は、既に筑波大学に移った後でジャーナリズムの一線からは離れていました。

後に彼の『リクルート事件・江副浩正の真実』という本の出版にあたっては、多少なりともお役に立てたのではないか、と思っています。警察・検察の捜査における「取り調べの可視化」という問題が今日、ようやく現実化しつつあります。あの事件当時、これが実施されていたならば、事件の様相は大きく違っていたかもしれません。

江副君は私を初めての人に紹介する時、「私の生涯で唯一の上司」とよく言っていました。江副君はリクルート創業者として生涯、経営トップだったので、東大新聞時代の「上司」だった私が「生涯唯一の上司」ということになるわけです。私が「上司」として江副君と付き合ったのは1956年秋から1959年3月までの3年ほどに過ぎませんが、いま思えば広告ビジネスとしてのリクルートの原点は、この時期の東大新聞にあったのではないでしょうか。

(取材・文 荒川拓)

天野勝文(あまの・かつふみ)氏

東京大学新聞OB、元理事

1957年、東京大学文学部社会学科卒業。1959年毎日新聞社に入社し、後に論説委員を務める。1986年、筑波大学助教授、89年同教授を経て日本大学でも教鞭をとる。

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