PROFESSOR

2020年5月26日

建築家・隈研吾が教える、世界的に活躍するための秘訣【退職記念インタビュー後編】

 昨年度で東京大学を退職した隈研吾教授(工学系研究科)。国立競技場や高輪ゲートウェイ駅の設計に携わるなど、ますます注目を浴びる希代の建築家に、仕事をする中で考えていることや、東大生へのメッセージを語ってもらった。

*本記事の取材は2020年2月26日に行われました。

(取材・大西健太郎 撮影・西丸颯)

 

前編はこちら

 

 

世界的建築家が、世界中を旅しながら考えていること

 

 国内にとどまらず海外でのプロジェクトも多数手掛ける隈教授。今やそのデザインの対象は建築のみならず、家具や食器、アクセサリー、靴などにまで及んでいる。建築の範疇を超えて活躍する隈教授は、世界中を飛び回る多忙な日々の中で何を考えているのだろうか。

 

──隈先生の建築が世界中で注目を集めているのは、「日本的なもの」を建築で表現しているからであるように思います

 

 僕より前に日本的なものを表現した建築家に、吉田五十八(いそや)とか村野藤吾という人たちがいたけど、彼らは今の若い人にはあまり知られていない。それはある種、彼らがインターナショナルな物差しで建築を作っていなかったからだと思う。

 

 さっきのアカデミーの話と同じだけど、僕自身は、インターナショナルな物差しで見た時に自分が何をやってる、これはどういう意味があるのか、といったことを検証するためのレファレンスの物差しを持ってたから、海外の人たちにも僕の建築を分かってもらえるんじゃないかな。

 

 

 それは海外の人に限った話ではなくて、日本の人もおんなじだと思う。今の日本人が普通の和風建築に触れる機会はほとんどないから、その意味で今の日本人は外国人と同じ目線を持ってるともいえる。だから、吉田五十八や村野藤吾とは違う親近感が僕の建築からは感じられるんじゃないかな。

 

・吉田五十八(1894〜1974)…昭和を代表する数寄屋建築家として数多くの近代和風建築を手がけた。代表作の一つである『歌舞伎座』の建て直しでは、隈教授が三菱地所設計とともに設計に当たった。
・村野藤吾(1891〜1984)…昭和期に活躍した建築家。『佳水園』は戦後の数寄屋建築の傑作として名高い。

 

──世界中を飛び回る中で感じる世界の趨勢や社会の変化についてどのように感じますか

 

 国と国の距離はものすごく縮まっているように感じるね。地球が小さくなったような。

 

──それはどういう時に感じますか

 

 世界中の色々なところで色々な建築のプロジェクトが進行しているけど、実はどれも同じような人が関わって、同じ人に色々な場所で出会う。それはデザインする人だけではなくてお金を出す人(クライアント)も。尖った活動をしている人は、割と少ない人数でやってるように思うな。

 

──隈先生もそのお一人ですが、そういった人々の共通点はなんでしょうか

 

 建築の世界に限らず、尖った人というのは自分の哲学のようなものを持っているように思う。

 

 今はちょっと尖っただけで世界中からお呼びが掛かる時代なんだよね。それは、若いみんなにとってすごいチャンスだと思うよ。

 

 以前は、あるヒエラルキーの中で一歩一歩登っていかないといけない、ってのがあった。会社だと上司にまず評価されて、その次の上司に紹介されて、みたいな。そういう、一歩一歩ステップを上がっていかないと海面には浮上しないようなところがあったけど、今はちょっと自分が尖ったものが見つけることができたら、学生でも海面に浮上することができて、その世界の色々なところからお呼びが掛かるようになる。そういう意味で、本当に世界の構造が変わったと思う。

 

 

──隈先生は靴や食器、アクセサリーなど、様々なプロダクトをデザインされています。建築以外の分野でも活躍されている理由について、自身ではどのように考えていますか

 

 アーキテクチャって言葉が、コンピュータの領域でも使われている言葉になったように、アーキテクチュラルに、建築的に考えるっていうことが、どの分野に対しても刺激になるからだと思う。建築的思考法とでも言うのかな。

 

 例えば、コンピュータのアーキテクチャっていうのは、全体の大きなシステムのことをそう言うじゃない。つまり、あるトータルなシステムを構造化する考え方のことを建築的思考って言っていいと思う。そういう思考を持っている人がコップや靴をデザインしたら、やっぱり普通のコップや靴をデザインする人とは違うコップが生まれてくる。僕が建築以外のプロダクトをデザインしているのは、そういう意味で世界に刺激を与えたいと思ってるからなんだよね。

 

 これは建築学科を出たから必ずしもそれができるようになるわけじゃないと思うけど、アーキテクチュラルな、構造的な思考ができる人は、どの分野にいても、世界で仕事をするチャンスがある。

 

東大生に送る最後のメッセージ

 

──今回のインタビューでは、世界で活躍するために備えておくべきものとして「物差し」が一つテーマとして浮かび上がってきました

 

 学生には、世界という物差しの中で、あるいは他人の物差しの中で、自分の個性がどういう意味があるのかなって常にチェックしてほしい。しかもそれを客観的に判断し、自分にフィードバックする力が必要だと思うな。

 

──そうした力はどのように鍛えることができるでしょうか

 

 やっぱり友達を持つことだね(笑)。友達と色々なものを見たり議論したりすることが大事だと思うね。

 

 僕がすごくラッキーだったと思うのは、学生の時から建築の雑誌にエッセーを書かせてもらえていたこと。大学院の同期5、6人で分担して『SD』という雑誌に連載した。それで毎月1回みんなで編集会議を開いて、今度は何で書こうか、誰が何を分担して書こうか、って議論してた。その時に仲間と交わした議論はとても刺激になったよね。

 

 その時の仲間が今は京都大、名古屋大、東京都立大、明治大とほぼみんな全国の主要大学の教授になってる。そういう絶えず喧嘩しながら議論する体験が重要なんだろうね。

 

 

──最後に、東大生にメッセージをお願いします

 

 うちの研究室には海外から多くの留学生が来てるけど、彼らは日本人よりも度胸が据わってる感じがする。例えば福島の被災地を調査に行った時も真っ先に手をあげたのは海外からの学生で、日本人は全然来ない。彼らは海外から日本に勉強しに来ている時点で一回海に飛び込んじゃってるから、肝が据わってるんだろうね。

 

 東大生はまだ海に飛び込む前で、飛び込んだら何があるかわからないなあ、サメがいるかもしれないしな、といった感じで(笑)。チャレンジすることを恐れている学生が多い。

 

 実際社会に出て勤め始めた時には、結局海に飛び込むことになるわけだから、学生のうちに早めに海に飛び込んでみたら?と思う。

 

 僕自身の話をすると、原先生とアフリカに集落調査に行った際、調査にかかるお金の工面からスケジューリングまで全部自分たちで行ったんだけど、その時に初めて「飛び込んだ」って感じがした。原研究室を選んだのも、ここにいたら飛び込めそうって気がしたからだったね。

 

隈研吾教授最終連続講義・第1回「集落から始まった」の一コマ。スクリーンに映し出されている写真はアフリカで集落調査を行った際に撮影したもの。 左から隈教授、原名誉教授、セン・クアン助教。©︎東京大学隈研吾研究室

 

 今思い返すと、もしあの時原研究室を選んでなかったら、今みたいに海外を飛び回る仕事なんてできなかったと思うな。

 

 だから、飛び込めるんだったら早く飛び込もう。海に飛び込んで泳ぎ出そう。飛び込む時にはやっぱりジャンプする必要がある。そのジャンプができる人間が伸びていくんだと思うね。

 

隈研吾(くま・けんご)教授: 1954年生。東京大学建築学科大学院修了。1990年隈研吾建築都市設計事務所設立。2009年より東京大学教授。 1964年東京オリンピック時に見た丹下健三の代々木屋内競技場に衝撃を受け、幼少期より建築家を目指す。大学では、原広司、内田祥哉に師事し、大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を横断し、集落の調査を行い、集落の美と力にめざめる。コロンビア大学客員研究員を経て、1990年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。これまで20か国を超す国々で建築を設計し、日本建築学会賞、フィンランドより国際木の建築賞、イタリアより国際石の建築賞、他、国内外で様々な賞を受けている。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案している。また、コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。

 

【隈研吾教授退職記念インタビュー】

建築家・隈研吾教授が振り返る東大での教員生活【退職記念インタビュー前編】

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