PROFESSOR

2024年3月7日

アカデミアの歩き方 研究者に聞く研究の楽しさ

 

 Googleで「研究職」と検索すると、「研究職 年収」「研究職 向いている人」「研究職 つらい」などの検索候補が表示される。研究職は一般的に就職先が決まりづらい、生活が不安定であるなどのイメージがある。また、自らが研究者に向いているかどうかは実際に研究の道に進んでみないと分からない。追究したいもの、解明したいものがあり、研究の道に進みたくてもさまざまな要素から研究職に就くことを不安に思っている学生もいるだろう。しかし、研究職にはそれをはるかに上回る面白さがあるのではないだろうか。東大大気海洋研究所で太平洋亜寒帯〜極域の生物地球化学・海洋物質循環や古海洋学の研究を行う原田尚美教授と東大大学院総合文化研究科言語情報科学専攻で近現代のイタリア文学の研究を行う山﨑彩准教授に、理系・文系それぞれの研究職という進路を選ぶまでの経緯や、研究者になってからのキャリア、研究の楽しさや困難の乗り越え方などについて話を聞いた。(取材・石橋咲、画像は全て原田教授・山﨑准教授提供)

 

フィールドワークに魅せられ、南極地域観測隊隊長に

 

大気海洋研究所 原田尚美(はらだ・なおみ)教授 95年名古屋大学大学院博士後期課程満了。博士(理学)。95年海洋科学技術センター(現・海洋研究開発機構)研究員。21年、海洋研究開発機構地球環境部門部門長。22年より現職。91年9月~92年3月の第33次、18年11月~19年3月の第60次南極地域観測隊夏隊に参加。
大気海洋研究所 原田尚美(はらだ・なおみ)教授 95年名古屋大学大学院博士後期課程満了。博士(理学)。95年海洋科学技術センター(現・海洋研究開発機構)研究員。21年、海洋研究開発機構地球環境部門部門長。22年より現職。91年9月~92年3月の第33次、18年11月~19年3月の第60次南極地域観測隊夏隊に参加。

 

  「研究者になろうだなんて思ったこともなかった」

 

━━研究者になろうと思った理由は何ですか

 

 初めて参加した研究航海の魅力に引き込まれたからです。修士課程ではフィールド調査をする海洋学の研究室に所属していました。修士論文は先輩方が取ったサンプルを使って書いたのでフィールド調査をする必要はありませんでしたが、フィールドに出てみたいという憧れがあって。もともと博士課程への進学は全く考えておらず、学部生の頃には中高の理科の教員免許を取得していましたし、修士で卒業する予定で就職先も決まっていました。しかし、諦められずフィールド調査を経験したいと先生に伝えたら、修論の締め切りを早めて11月中に提出できるなら、と太平洋の赤道航海に連れて行ってくれることになりました。海洋学の調査では、サンプリングも一人ではできないんです。みんなで協力しながら海水や生物プランクトン、海底の堆積物を採取しました。何もかも初めての経験でワクワクしましたね。先生に採取したサンプルを使った研究ができたら面白そうだと話したら「君は就職するんだよね。君がやらなくても後輩が研究するから大丈夫だよ」と言われて。そう言われるとすごく惜しくなって「私がやりたいです」と。サンプルを使った研究をするためにその場で博士課程への進学を決意しました。下船してすぐ進学の申請と2月にある試験の準備をして。内定先にも進学が理由で辞退するということを正直に伝えたら、快く理解を示してくれました。

 

 研究者になろうと思ったのは博士課程に進学してからです。周りの優秀な先輩たちを見ると自分に研究者としての能力が備わっているのか自信が持てず、大学院を出たからといってポストが約束されているわけでもないので、それまでは研究者になろうだなんて思ったこともありませんでした。自信のなさを克服するためには学生のうちにフィールドワークの経験を積むしかないと考えて、どんどん挑戦していましたね。

 

━━学生時代はどのような研究をしていましたか

 

 学部は弘前大学で、雨の中のベリリウム−7という放射性核種を分析するという大気化学の研究をしていました。周りに名古屋大学の大学院に進学する先輩が多かったことや、指導教員からしっかりフィールドワークをするなら大学を変えた方がいいとアドバイスされたことで名古屋大学に移ることを決めました。この弘前大学の先生から南極のフィールドの楽しさや自然の素晴らしさを教えていただいていたこともあり、南極観測隊を何人も輩出している名古屋大学は魅力的でした。

 

 名古屋大学では、研究室をいくつか回って楽しく話ができた先生の研究室を選び、海洋学に専門をシフトすることにしました。有機化学をベースにした研究室で、それまでの研究とは全く違うものを扱うので不安もありましたが、新しく勉強するのもいいかなと思って。先生も修士から始めても大丈夫だと言ってくださったんです。海底の堆積物は昔の環境を記録するタイムレコーダーのような存在で、古海洋の環境を再現するためにその年代測定の手法を開発するのが修士、博士のテーマでした。

 

初めての南極調査 メインの研究は失敗

 

━━1991年、博士課程1年次に南極地域観測隊員として南極の調査に初めて参加しています

 

 昭和基地がある東オングル島に降り立ったときには「ようやくここまで来たな」という深い感慨がありました。南極観測船「しらせ」で、途中で海洋観測をしながら1カ月ほどかけて向かうんです。南極に行く途中に南緯40度から60度までの暴風圏を通るのですが、とても風が強くて海が大荒れで。荒波を乗り越えてやっと到着しました。南極の景色はもちろん美しいのですが、風が止むと生き物の気配が全くない無音の世界になることにまず感動しましたね。

 

南極観察船「しらせ」
南極観察船「しらせ」

 

 海底の堆積物(セディメント)は、海の表層で生物が作る有機物や陸上由来の鉱物粒子などがたまってできます。海底に堆積する前にそれらの粒子を捕集する装置をセディメントトラップといい、粒子を集めるボトルを2週間に一度自動で交換することで、沈降粒子を時系列で採取できます。南大洋という外洋域でサンプルを捕集するため、海底にセディメントトラップを設置しました。季節ごとにどういった種類の有機物がどれくらい生産されているか分析できるように、このサンプルを日本に持ち帰ることがメインのミッションでした。往路で設置して2カ月ほど捕集し、復路で回収する予定だったのですが、なんと回収しに行ったらなかったんです。推測ですが、南極大陸の方から流れてきた氷山が持って行ってしまったのではないかと思います。このようなトラブルは特に極域の海洋観測では起こる可能性が高いので仕方がないとはいえ、メインの仕事のサンプルがゼロという面でも、失った金額の大きさという面でも非常にショックが大きかったですね。

 

セディメントトラップ
セディメントトラップ

 

━━博士課程を修了した後のキャリアについて教えてください

 

 南極に行って休学もしていたので、博士課程を満了した時点で学位は取れていませんでした。しかし、海洋環境の理解や海洋資源の利用、地震・火山活動の調査などを目的として研究を行う海洋科学技術センター(現・海洋研究開発機構)の常勤ポストが幸運なことに卒業のタイミングで見つかったんです。「あと1年で学位が取れます」という点を信用してもらったことと南極での経験を買われ採用されました。なので、非常勤の職は経験していません。ただ、ポスドクはいろいろな場所で経験を積むことができるので良い制度だと思います。就職して1年目の3月末に学位が取れたのですが、学位記をもらったときには「これで学生は終わったな」と一つの区切りとして感じましたね。うれしい半面、もう先生は頼れないという不安もありました。

 

 海洋研究開発機構では北極海の研究に軸足を置いていましたが、18年に再び南極に行きました。今度は副隊長だったので、マネジメントの仕事が中心でしたね。「しらせ」は自衛隊が運航しており、南極に着いてからも観測隊の支援をしてくださいます。コミュニケーションを深めるために、行きの船の中では「しらせ大学」と銘打って、研究者と自衛隊員が相互に自分たちの仕事の内容を話すセミナーを開催したり、パーティーや餅つき大会を行ったりしました。南極に到着すると、観測隊は24時間フル稼働で働きます。観測隊には海洋学の研究者だけではなく、地質や大型生物、陸上植物、氷河などさまざまな分野の研究者がおり、それぞれ調査地が違うので、「しらせ」や昭和基地からヘリコプターで輸送しなければなりません。また滞在していたのは南極の夏だったのですが、気候が安定している夏の間に建設や建物の修理を行う必要もありました。

 

第60次南極地域観測隊夏隊に参加。昭和基地で
第60次南極地域観測隊夏隊に参加。昭和基地で

 

 東大の大気海洋研究所に異動してきたのは22年で、現在は博士の学生を1人指導しています。

 

━━第66次南極地域観測隊隊長としての調査への参加が決定しましたが、どのような思いで臨みますか

 

 18年に久しぶりに南極を訪れて、学生時代の南極調査で失敗した研究のことを思い出しました。「あの時に失敗した研究がまだできていないじゃないか。もう一度チャンスがあれば絶対に準備していこう」と思って、また南極に行かせてもらえると決まったときから準備を始めて、科研費も獲得しました。今度こそはデータを取れるかなと楽しみにしています。

 

 隊長の仕事は最終的な判断を下すことです。隊員の皆が仕事を成功させて無事に日本に帰ってほしいと思っています。自分の仕事の成功も隊員たちの仕事の成功も同じですから、責任も喜びも大きいポジションですね。ネガティブな判断も含めて隊員たちに納得してもらえるように、出発までにチームづくりをしっかりと行って行きたいと思います。チームづくりの中では、アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)に特に気を配って、隊員へのレクチャーも行っています。アンコンシャスバイアスの典型例の一つが、南極「経験者」と「初心者」とどう向き合うかという点。初めて南極の調査に参加する隊員が経験者にとっても難しい仕事を上手にこなせることもあるので、リーダーとして経験者か初心者かで役割を決めず、初心者の隊員にもいろいろな仕事に挑戦して欲しいと考えています。

 

━━プライベートとの両立はどのようにしていますか

 

 就職し、学位を取った後に29歳で結婚しました。時期については特に計画していませんでしたが、自分の中では就職と学位取得が優先だったので、結婚が最後だなと考えていましたね。南極に行く船の中ではネットが使えないのですが、昭和基地では使えるので、夫とはもっぱらメールで連絡を取っています。

 

自信を持てなくても、一歩一歩進んで

 

━━研究者になって良かったと思いますか

 

 好きなことをしてお給料がもらえて、こんなに幸せなことはないですね。自分の研究成果が論文になることにも非常に喜びを感じます。初めて自分の論文が雑誌に掲載されたときはとてもうれしく、今までやってきて良かったと強く思いました。実際は計画通りに研究が進まないなどの困難に向き合っている時間の方が長いですが、いつも手前にいくつもゴールを設定し、一歩一歩進んで先にある大きな困難を乗り越えています。

 

 研究の中で、自信ってなかなか持てないですよね。学生時代、自分に研究者としての能力が備わっているか不安でしたが、今でも自信はないんですよ。でも、「これが好き」「これがやりたい」と思っている人はどんな人でも研究者に向いていると思います。私は割と行き当たりばったりの人生を歩んできたのですが、学生時代の指導教員など、道を示して人生を引っ張ってくれる人の存在がありました。学生には、そういう人との出会いや、もらうアドバイスを大切にしてほしいと思います。この世界に進んだきっかけとして、もちろんフィールドワークが楽しかったことがありますが、フィールドワークでの指導教員のすごく楽しそうな姿を見て、大人がこれだけ楽しめる世界というのに憧れたんです。私も楽しく研究をする姿を学生に見せて、できるだけ多くの学生を育てたいと思っています。

 

イタリア文学の紹介者になりたい

 

総合文化研究科言語情報科学専攻 山﨑彩(やまさき・あや)准教授 09年、東大大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学・博士号取得。博士(文学)。20年より現職。著書にジョヴァンニ・デサンティス・土肥秀行編『イタリアの文化と日本: 日本におけるイタリア学の歴史』(松籟社)、翻訳にムッツァレッリ『イタリア・モード小史』(知泉書館)など。
総合文化研究科言語情報科学専攻 山﨑彩(やまさき・あや)准教授 09年、東大大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学・博士号取得。博士(文学)。20年より現職。著書にジョヴァンニ・デサンティス・土肥秀行編『イタリアの文化と日本: 日本におけるイタリア学の歴史』(松籟社)、翻訳にムッツァレッリ『イタリア・モード小史』(知泉書館)など。

 

「まだ勉強し足りない」修士、博士、研究者に

 

━━研究者になるまでの経緯を教えてください

 

 大学に入学した頃から漠然と研究者になろうと思っていました。勉強を続けていきたいという思いがあり、研究の道に進むことは大学に入ることの延長と捉えていました。なんとなく歴史の研究者になろうと考えていたのですが、大学で勉強する中で歴史というものに対して実際はあまり興味を持てないことに気付いて。その後、偶然イタリアの作家、アントニオ・タブッキの『インド夜想曲』を読みました。続けてナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』やダーチャ・マライーニの『シチーリアの雅歌』も読み、イタリア文学をすごく気に入ってしまって「イタリア文学を勉強して、紹介できる人になりたい」と思いました。読んで最初に感じたのは軽やかさで、その下に重く深いものがあるように感じたんです。その二つの感覚が洗練された味わいを生んでいて、掘ってみたら面白いんじゃないかと思いました。研究者になりたいという夢は、イタリア語ができるようになりたい、原語で読めるようになりたいという具体的な目標に切り替わり、進学振り分け(当時)で文学部言語文化学科南欧語南欧文学専修課程に進学しました。

 

 周りが就活を始めた頃、自分も就活をしようかとぼんやりと考えていたら、親に「研究者になりたいって言ってたでしょう」と言われて。東大は学部で3〜4年次しか専門の勉強ができないので、特に理系だと修士課程まで行ってから就職する人が多いですよね。1、2年次はイタリア語がほとんど開講されておらず、3年次から勉強を始めたので4年生になってもまだ習得できていないという思いがありましたし、満足がいくまで勉強したいと考え、院進を決めました。修士から博士に進むときは、まだ全然勉強ができないからもうちょっと勉強したい、という気持ちが一層強くなりました。また、私が学部4年生の年はちょうど就職氷河期が始まった年だったんです。特に女性の友人たちが就活に非常に苦労している姿を目の当たりにしました。その傾向は2年後も変わることがなく、就職先に困らなさそうだった理系の友人たちも大変な目に遭っていて…。イタリアに関係する就職先も思い当たりませんでしたし、就職は無理だろうと思いましたね。研究も面白くなってきて、少しだけできるようになったからもう少しできるかもしれないという気持ちもあり、研究の道に進んでいました。

 

━━学生時代からどのような研究をしてきましたか

 

 私の先生はダンテ研究者の浦一章先生で、授業ではダンテやボッカッチョを読みましたが、私は学部時代から20世紀のイタリア文学を勉強したいと思っていました。卒論はアントニオ・タブッキの『インド夜想曲』について、その本に対する激しい愛情によって書き上げたのですが、先行研究が十分にそろっていませんでした。修論ではより学術的なアプローチがしたいと考え、研究室の助教の先生に自分のやりたいテーマや問題意識を話したら「まだ日本で研究されていない作家で面白い作家はたくさんいるから、その中から選んでみましょう」と選択肢を示してくださり、イタロ・ズヴェーヴォという作家の研究をすることにしました。博論では同じ作家についてもう少し包括的な研究をして、博論を書いてからは他の作家についても研究しています。

 

 大学院時代には2回イタリアに留学しました。1回目は語学留学のような形で、学部生の授業を受けていました。2回目は、博論を書くために行きました。イタリア語にどっぷり浸かって生活することで、言葉とその言葉が使われるシチュエーションを吸い込むように覚えられましたね。日本にいるとイタリア語は頭の中の1%ほどしか占めていなかったのが、イタリア語の比率が増えてイタリア語的な思考ができてきたような感覚もありました。フィレンツェとピサという常に歴史が感じられる街で過ごしたので、イタリア文学の軽やかさと深さの、深さの部分を実感し、より立体的に読めるようにもなりました。

 

 イタロ・ズヴェーヴォが生まれたトリエステという町は複雑な歴史を持った町で、20世紀にはトリエステの周辺で何度も国境の線が引き直されているんです。イタロ・ズヴェーヴォの他にトリエステ出身の作家でクラウディオ・マグリスという作家がおり、ぜひ日本に紹介したいと考えています。また、トリノ出身のプリーモ・レーヴィという作家は、アウシュヴィッツ強制収容所から生還して自身の経験や短編小説を書いており、現在はこの作家にも関心を持っています。

 

留学中、シチリアのアグリジェントで
留学中、シチリアのアグリジェントで

 

三度の飯より研究が好き

 

━━博士課程修了後は

 

 日本でイタリア文学を教えている大学は五つくらいしかないんです。一般的に、常勤職に就く年齢は研究領域によって大きく異なり、マイナーな研究領域はなかなか就職先に巡り合えない場合がありますが、非常勤の仕事はあります。常勤職は研究の資金や肩書きが付くので研究をしやすいですが、研究以外にやらなければならない仕事も多いですね。非常勤職で研究を続けていく場合は、モチベーションを保つのは難しいですが、研究に割ける時間は多いと思います。周りを見てみると、博論を書いてすぐには就職が決まらなくても、結果的にはだいたい皆就職できています。研究者になった人もいるし、途中下車した人も出版社や翻訳関係の会社などに就職して、それぞれやりたい仕事を見つけています。正直に言うと、私は30代の前半は「私の人生は終わっているんじゃないか」という絶望と不安で苦しかったんです。でも、振り返ってみるとなんとかなっていた、という感じです。個人で細々と研究を続けてきたことで、現在のポストの公募があった際に提出できる論文がそろっていました。

 

━━研究の楽しさとは何ですか

 

 ずっと成長し続けることができるところです。分からなかったことが分かるようになるのはとても楽しいです。つらいことはないですね。考え事をしているときはごはんも上の空です。現在は長期休みの時期に集中して研究を行っています。また、翻訳の仕事も少ししています。イタリア文学に興味を持つきっかけになった本のほとんどが、須賀敦子という翻訳者が訳したものでした。どうやら須賀敦子の翻訳が好きだったみたいですね。大先輩にあたる武谷なおみ先生や村松真理子先生の翻訳も好きです。良い翻訳を読むとうれしい気持ちになりますね。自分がそういう翻訳ができているかというと、まだスタートラインにも着いていないような気持ちでいます。研究者としての最終的な目標は文学を紹介することなので、その点では道半ばです。作家や作品、テキストに対する絶対的な尊敬があるので、作品の一番良いところを論文にして出したい、忠実に翻訳したいという思いがあります。

 

子どもに感謝

 

━━プライベートとの両立はどのようにしていますか

 

 博論を書き終えてから結婚しました。大学院を出たときには30代の半ばで、子どもを産むタイムリミットが近づいてきていました。昔であれば30代後半で高齢出産と言われますが、今は多いです。1人目が産まれたらあまりのかわいさにもう一人産みたいと思い、40代の前半に2人目を出産しました。研究者になると出産の時期が少し遅くなる可能性が高いですが、中には修士ですでにパートナーがいて、子どもを育てながら博論を書く人もいます。

 

 今は、パートナーと2人で、分担して子育てをしています。パートナーは戦友のような存在です。戦いのような1日が終わると「お疲れ様でした」みたいな(笑)。遅くには帰れなかったり、子どもの誕生日には早く帰らなければならなかったり、休みの日に研究をしたくても子どもが何かをしている隙に目を盗んでやらなければならなかったりなどと制約もあります。でも、子どもから教わることも多いんですよ。こういう考えがあってこういう行動をするのだと目の当たりにすると「あの小説のあの主人公だ!」と思ったり。子どもを保育園や学校に送り出すために早起きをするようになったり、食生活に気を付けたりするようにもなりましたね。研究をするためだけに生きているわけではないですが、人間らしい生活もまた研究に資するものだと思うので……。子どもにはあらゆる面で「生まれてくれてありがとう」と思っています。

 

━━研究職を目指す学生にメッセージをお願いします

 

 学部卒業の時点では、自分が研究に向いているかどうかや研究が続けられるかどうかはよく分からないと思います。もっと勉強がしたいと思ったら修士課程まで進んでみるといいのではないでしょうか。その上で、博士課程に行けそうだったら行けばいいし、いつでも就職することは可能です。経済的な困難を心配する人が多いですが、実際は精神的な辛さで研究職を諦める人の方が多いです。私はあまり恵まれない世代でしたが、それでも結果的にうまくいったので、落ち着いて、楽観的に過ごしてください。

 

 私はマイナーな分野の誰も注目しないような学生だったのですが、ずっと続けているうちに応援してくれる人も現れました。大学を超えて、先輩の研究者が応援のメールをくれることもあります。イタリア文学に限らず、文系の研究をする人がもっと増えてほしいと思っています。

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