文化

2021年10月24日

東大出身の文豪を徹底解剖! ③太宰治・三島由紀夫編

 

 「東大」と「文学」の関係は? と聞かれて、多くの人がすぐに思い起こすのは、いわゆる「文豪」たちの存在ではないだろうか。それほど、近代文学史に名を残した文学者たちには東大の出身者が多い。では、その文学者たちの東大での経験はそれぞれの作品にどのような影響を与えたのだろうか? 作品の東大生ならではの楽しみ方は? そんな疑問を解決するのが本企画。今回は太宰治・三島由紀夫の東大生時代や作品の魅力についてお届けする。記事を片手に、この秋は読書で「東大」を感じてみてはいかが。(構成・鈴木茉衣、取材・井田千裕、近藤拓夢)

 

太宰治:自意識をさらけ出し、そしてあなただけに語りかける

 

 太宰治の作品の魅力は「あなただけに語りかける」点にあると思います。太宰自身が反映された主人公は「自意識過剰の饒舌(じょうぜつ)体」と呼ばれる文体で、自らの負の側面を言葉を尽くしてさらけ出し弱さを演じます。いわば究極の謙譲です。謙譲の態度が生み出す適切な隔たりがあるからこそ、作者が「あなただけに」真実を教える、という関係性が作られ、読者は作品の中の声に耳を傾けやすいのです。これは太宰から読者へのサービス精神です。

 

 現代では、このサービス精神への共感とともに太宰作品が読まれるようになっていると思います。人間同士の距離の取り方を探るのが難しくなっているインターネット社会で、人との関わり方が分からないと吐露し、読者にささやきかける『人間失格』は若者世代に広く受け入れられています。

 

 ただ注意しなければならないのは、この「自意識過剰の饒舌体」が、必ずしも太宰の現実での弱さを意味しないことです。1920年代は読書をする人の層が大幅に広がった時代で、作者は数万もの大衆に物語を届けなければならなくなりました。太宰は見えない数多くの読者を引きつけるため、意識的にこの文体を用いたようです。

 

 太宰がパロディーの名手だと言われるのもこのことと関係があります。『女の決闘』という作品では、まず既存の翻訳作品を引用した後、太宰自身が新たな文脈を付け加えて物語を再構成しています。つまりパロディーの手法は「ある物語の舞台裏をあなただけに教える」という構造を作るのに適しているのです。

 

 太宰の作品で描かれる自意識が必ずしも本人のそれと同じではないのと同様に、太宰の作品に現れる「死」と太宰本人の心中を完全に同一視するべきではないと思います。太宰の作品に現れるのは観念としての死です。実生活よりもずっと、カタストロフィーを追求した、凝縮された「死」なのです。「死」は「自意識過剰の饒舌体」とも関係があります。太宰が口数多く語り、逃れられなかった自意識からの救いである「死」は安息の境地として美しく描かれています。自意識から逃れられないという悲劇と対峙(たいじ)するのが、究極の無意識としての「死」なのです。

 

太宰の学生時代の作品『盗賊』が掲載された「帝国大学新聞」593号(昭和10年10月7日)紙面

 

 太宰は高校時代、いわば「低空飛行」をすることで英雄になる道を選びました。つまり、同級生には遊んでいる姿しか見せないものの器用に進級を果たし、尊敬を得ようとしたのです。フランス語が一文字も分からない状態で東京帝大の仏文科に入学しましたが、授業にはほぼ出席せず、結局中退しています。中退、左翼運動、そして女性との心中未遂などのスキャンダルから、太宰は学生時代にあまり勉強をしていなかったという印象を持つ人がいるかもしれません。しかし、帝大時代の太宰は授業に出なかった代わりに日本と世界の名作を驚くほどたくさん読んでいました。当時の文章を読むと言葉の端々にそれが感じられます。

 

 帝大時代の太宰の姿をしのばせる作品としてお薦めするのが、第一創作集『晩年』に収められた『逆行』という短編集の中の『盗賊』という作品です。これは太宰の在学中、東京大学新聞の前身である帝国大学新聞に掲載された作品で、太宰本人がモデルと考えられる「われ」が本郷にフランス語の試験を受けに行ったときの出来事が描かれています。当時帝大で教えていた辰野豊、学生だった三好達治、小林秀雄がモデルと考えられる人物が登場し、本郷の大教室をほうふつとさせる描写が見られ、在りし日の帝大の様子を想像させます。自身の大学生活を自虐的かつユーモラスに表した作品です。

 

安藤宏(あんどう・ひろし)教授(東京大学大学院人文社会研究科) 87年東大大学院人文科学研究科国語国文学専門課程博士課程中退。12年博士(文学)。上智大学文学部助教授(当時)などを経て10年より現職。著書に『太宰治 弱さを演じるということ』(ちくま新書)など。

 

三島由紀夫:官能と陶酔の果てに、 整然とした理知と論理を見る

 

 三島由紀夫作品の魅力は、まず整った作品構成と華美な文体にあると言えます。加えて、知性のみで作られた作品のように見えながらも、実際は作品に「彼の『体重』がかかっている」ところ、つまり三島でなければ表現できないオリジナリティーがあるところも、その魅力の一つです。

 

 そして一番の醍醐味(だいごみ)は、作品の中に「人間の可能性の極限」や「極端な視点」と「現実の社会的常識」が並存しているところです。彼は芸術家としての自己の個性や偉才をひけらかすのではなく、多くの人たちが考え、感じていることを受け止めながら人間の極端な状態を描いているのです。

 

 お薦めの三島作品は『若人よ甦(よみがえ)れ』という戯曲です。自身の学徒動員の体験を基にした、第二次大戦敗戦前後の日本が舞台の学生群像劇です。敗戦への反応としてよくイメージされる日本人の落胆や嘆きとは違う、学生らしい反応が特徴的です。劇中には、敗戦を認めず抗戦を主張する者、冷笑的に敗戦を受け止める者、平和ではなくむしろ戦争の中に一種の生きる喜びを見出す者らが出てきます。多種多様な当時の学生の立場から、敗戦という出来事をもう一度捉えることができる点が面白いと思います。

 

 青年期の三島はとても真面目で、人間的な魅力がありました。勉強が嫌だ嫌だと言いながらも、東大在学中に高等文官試験(現在の公務員試験)に合格しています。大蔵省に入省後はしばらく官僚の激務と執筆活動を両立させました。

 

 当時は終戦直後の混乱期で、読者や出版社が新人作家に見向きもしない時代でした。激動の時代に三島の秩序立った文学は受け入れられず、苦難の日々を過ごしました。過労のあまり足を滑らせ、渋谷駅の線路に転落したこともあったそうです。それでも川端康成らを頼って、デビューを目指し努力を続けました。

 

 彼の青年時代の人柄や経験は作品にも表れています。東大在学中には刑事訴訟法に興味を持って法学部で学びました。そこで培った論理的思考は『金閣寺』に代表される緻密な世界観や、理知的で論理的な作品の構造に反映されています。

 

自身が設立した民間防衛組織である『楯の会』の制服を着た三島(佐藤教授提供)

 

 三島が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺したことは有名ですが、彼は切腹や死に対してエロティックな感情を抱いており「大いなるものや大義のために」「悲劇的英雄として」死にたい、という強い願望を持っていました。少年期に起こった二・二六事件で、青年将校が大義のための悲劇的な死を遂げたことが強く影響していると考えられます。

 

 その果てに、彼は日本文化および天皇制の護持という大義にたどり着きました。戦後の日本文化を侵食し続ける西洋文明に強い危機感を感じていたのです。また天皇に対して恋闕(れんけつ)の情(エロティックな感情を含む、忠誠心を超えた熱狂的崇拝の感情)をも抱いた三島は、理想の天皇像を神格化するあまり、実存の昭和天皇に対する批判さえ主張するようになりました。

 

 この思想的発展の中で、1969年には、東大を「解放区」として共産主義革命を目指し、三島と思想的に対立する東大全共闘の学生と激しい議論を交わしました。ただ三島は、抽象的で舌足らずながらも純粋な青年たちの熱情を賛美しており、立場は異なるものの東大の後輩である全共闘の学生たちをある点では応援していたのだと思います。

 

 このような政治姿勢はエロティシズムの追求でもあり、作品全体に貫かれたテーマでもあります。彼の政治的言動や思想的傾向と、それに伴うセンセーショナルな自殺は不可解に思われることが多いのですが、彼にとっては自分の美学に沿ったものだったのです。

 

佐藤秀明(さとう・ひであき)教授(近畿大学) 87年立教大学大学院博士課程満期退学。09年博士(文学)。椙山女学園大学教授などを経て、03年より現職。17年より三島由紀夫文学館館長。著書に『三島由紀夫悲劇への欲動』(岩波新書)など。

 

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【記事修正】2021年10月26日午前1時26分 誤字を修正しました。

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