文化

2021年10月22日

東大出身の文豪を徹底解剖! ①森鷗外・谷崎潤一郎編

 

 「東大」と「文学」の関係は? と聞かれて、多くの人がすぐに思い起こすのは、いわゆる「文豪」たちの存在ではないだろうか。それほど、近代文学史に名を残した文学者たちには東大の出身者が多い。では、その文学者たちの東大での経験はそれぞれの作品にどのような影響を与えたのだろうか? 作品の東大生ならではの楽しみ方は? そんな疑問を解決するのが本企画。今回は森鷗外・谷崎潤一郎の東大生時代や作品の読み解き方についてお届けする。記事を片手に、この秋は読書で「東大」を感じてみてはいかが。(構成・鈴木茉衣、取材・鈴木茉衣、葉いずみ)

 

森鷗外:『舞姫』で見る文学史と、現代的な批評の持つ広がり

 

 森鷗外の作品の魅力は鷗外自身の魅力と切っても切り離せない関係にあります。成し遂げた仕事について一言でまとめると「多様性と総合性」でしょう。文学に限っても小説、短歌、俳句、漢詩など多様なジャンルの作品を残し、数多くの作品の翻訳も手掛けました。さらに審美学、倫理学の日本への移入や、歴史研究も行い、軍医でも高級官僚でもありました。人脈もその分多様で、医学者や軍医はもちろん、政界、財界、女性解放運動家や俳優などいろいろな人との交流がありました。

 

 漱石、太宰、芥川など名だたる文豪らが権力中枢から距離を置いていたように、周縁の立場から活動することが日本の近代文学の主流でした。それに対して鷗外は陸軍を退職した後も宮内省に勤務し、生涯「権力の内側」にいました。文学者が権力の内側にいたこと自体が日本近代文学では珍しいですが、そのような立場から政治批判を含む作品も多く発表していたのは鷗外についての特筆すべき点でしょう。

 

 その特徴がよく現れているものの一つが『沈黙の塔』という作品です。明治末に起こった大逆事件を受けて桂太郎内閣の下で言論統制が激しくなったことへの批判が込められています。言論統制がいかに学問や芸術の発展を阻害するかということを寓話的に、しかしはっきりと描いており、短くて手軽に読めるお薦めの作品です。

 

 鷗外が東大医学部で学んだのは明治10年代初頭のことで、まだ東大の大学としてのシステムも確立されていなかった頃です。それは大学組織だけではなく学問についても言えることでした。西洋の学問を教えられる人材が国内にはまだ育っていなかったため、鷗外はいわゆるお雇い外国人のドイツ人教員にドイツ語で医学を教わっていました。後に鷗外はドイツへ留学しますが、ドイツでいろいろなことを見聞きし吸収できたのは東大で培った語学力があったからこそです。この留学経験は軍医や官僚としてのキャリアにも文学者としての活躍にも大きく影響しています。

 

東大とも関係の深いもう一つのお薦め作品『雁』に登場する『皋鶴堂批評第一奇書金瓶梅 100 回坿讀法』(東大総合図書館所蔵)

 

 国語教科書に載った作品として非常に有名な『舞姫』は、高校の授業では「近代的自我の確立とその挫折」を主題とする物語として教えられることも多いですが、実はそのような読みは作品が発表された1890年当初からあったものではありません。研究者、評論家などの間でこのような理解が定説となったのはそれから60年以上が経過した1955年頃のことなのです。

 

 この理解の確立の背景にあるのはアジア太平洋戦争の敗戦です。明治維新以来、西洋式の教養と近代的な自我を獲得したはずだった日本人が、知識人らも含めなぜ軍国主義に巻き込まれこのような戦争を止められなかったのか、という反省の中で「明治以来、日本人の近代的自我の確立が不十分なものだった」とする見方が共有され、それが近代文学を読むための解釈格子として広まったのです。このような『舞姫』の受容史はその時代の読者が求めることが文学作品の読みに影響することをよく示しているでしょう。

 

 『舞姫』の主題を「近代的自我の目覚めと挫折」と見る読みは、評論や研究の世界ではすでに過去のものですが、高校の授業ではいまだに続いています。この主題に対する今日的視点からの批判の一つは、主人公・豊太郎の「自我の目覚め」にだけ注目することは、知識人男性より弱い存在として彼と関わったエリスの立場を尊重していない、というものです。ある文学作品の定説とされる読み方も特定の時代のニーズに応えたものにすぎず、必ずしもその読みに縛られる必要はないのです。

 

大塚美保(おおつか・みほ)教授(聖心女子大学) 94年東大大学院人文科学研究科(当時)博士課程修了。博士(文学)。埼玉大学助教授(当時)などを経て08年より現職。著書に『鷗外を読み拓く』(朝文社)など。

 

谷崎潤一郎:「支那趣味」作品から見るオリエンタリズム

 

 近代日本文学の中心がなぜ圧倒的に東京、それも早稲田大学・東大・慶應義塾大学・学習院大学など一部の大学なのか知っていますか。これは、作家として成功するためには少人数の才能ある集団に属して情報交換や切磋琢磨をする必要があり、今挙げたような大学に在籍することで初めてそれが可能になったからです。才能ある小さな集団からクリエイティブな力が爆発的に生まれるのは「トキワ荘」から昭和を代表する漫画家が多く輩出されたのと同じことです。

 

 谷崎潤一郎もそうした集団で才能を伸ばし、東大の外で活躍の場を増やしていきました。高等商業学校付属外国語学校(現・東京外国語大学)で学んだ永井荷風に作品が評価され、また中央公論社の名物編集長、滝田樗陰(ちょいん)が彼に発表の機会を次々与えたことで谷崎は名を上げていきました。

 

 また、第一高等学校在学時代にできた寮の友人は谷崎のアイデンティティー形成に大きく寄与したと言えます。谷崎は、後に大蔵大臣になる津島壽一(じゅいち)や朝鮮銀行の副総裁になる君島一郎など、文学とは全く異なる分野へ進む同級生と寮で交流しました。その中でお互いの差異や自分の立ち位置をはっきり知り、自分が発揮すべき個性について自然と考えたのでしょう。

 

 お薦めの谷崎作品は大正期に書かれた「人魚の嘆き」です。これは中国を舞台にした「支那趣味」と呼ばれる作品群の一つです。大正期は個人の中国旅行が初めて可能になった時代でした。明治期には中国国内の鉄道や河川航路が整備されておらず、個人が訪れられるのは上海や香港などの国際的な港のある都市に限られていたからです。しかし大正期に帝国主義の時代が訪れると、中国に進出した列強諸国によって近代交通網が整備されました。すると日本で中国大陸の周遊券が販売され、谷崎をはじめとする多くの小説家や画家が中国を旅し、中国を舞台にした作品を発表するようになったのです。

 

『人魚の嘆き』の挿絵(西原教授提供)

 

 一連の「支那趣味」作品の魅力は二つあります。一つ目は内容の美しさです。当時の谷崎は、中国を資本主義的で浅ましい日本とは対照的な、古代のままに美しい世界だと考えてこれらの作品を書きました。特に『人魚の嘆き』で描かれる中国は美しく幻想的です。二つ目は作品を通して当時の日本人の差別的な中国観が読み取れる点です。谷崎は、日本や欧米は進歩し続けるが、中国は古代から発展をしていないとする差別的なオリエンタリズムを無自覚に内面化していました。

 

 谷崎は中国を2回旅行しました。1918年の1回目の中国旅行では「古代のままに美しい中国」という先入観に沿う中国ばかりを観光し、かえって偏見は強化されました。しかし26年の2回目の中国旅行で、谷崎はこうした認識の誤りに気づきます。友人の中国人文学者との旅行中の交流を通して中国にも社会問題があるという現実を知ったのでした。美しいものを好み政治や社会問題に興味を持たなかった谷崎は、以降中国を舞台にした小説を書かなくなります。ちょうどその頃谷崎は関東大震災後を経て関西移住をしており、それをきっかけに関西を美しいと感じ始め、美しく伝統的な日本を描く「古典回帰」的な作風へと変化していきました。

 

 谷崎は「耽美派」と呼ばれ、性に奔放で不真面目な作品を書くため、彼自身もそのような人間だと思われがちです。しかし彼は10代の時に経済的に苦労し怠けることに抵抗感があったため、大変勤勉でした。初期から死の直前まで作品を書き続けたため作品数も大変多いです。谷崎は「支那趣味」作品でも「古典回帰」作品でも一貫して、「いまここ」にはない理想美を追い求め、勤勉に書き続けたのでした。

 

西原大輔(にしはら・だいすけ)教授(東京外国語大学) 96年東大大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。02年博士(学術)。シンガポール国立大学助教、駿河台大学助教授(当時)、広島大学准教授などを経て21年より現職。著書に『谷崎潤一郎とオリエンタリズム−大正日本の中国幻想』(中公叢書)。
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