学術

2022年3月23日

【100行で名著】三島文学の幻想的で知的な世界観 『豊饒の海(一)春の雪』三島由紀夫 

 

 三島由紀夫───彼は戦後日本を代表する作家であり、イデオローグであった。三島というと、市ヶ谷駐屯地における割腹事件や右翼的な言動にばかり注目が集まるが、それは極めて卑小な見方に過ぎない。そこで今回は、2020年に没後50年を迎え、近年その著作が再び評価されている三島由紀夫、特に三島文学の金字塔である遺作『豊饒(ほうじょう)の海』四部作について、4回に分けて語りたい。三島文学の幻想的で知的、技巧的な世界観を少しでもお伝えできれば幸いである。

 

『豊饒の海』第一作『春の雪』

 

 『豊饒の海』第一作『春の雪』は大正初期の東京が舞台である。松枝侯爵(まつがえこうしゃく)家の嫡子で18歳の清顕(きよあき)青年と、綾倉伯爵(はくしゃく)家の令嬢で2歳年上の聡子(さとこ)は共に華族という身分で、幼なじみの関係から、聡子は清顕に淡い恋心を抱いていた。清顕は感情の赴くままに生きる華奢で色白の美青年であり、左の脇腹に三連のほくろを持つのが特徴だった。思春期特有のアンビバレントな感情を抱く清顕は、聡子の美貌を認めながらも、どこか突き放すような態度をとっていた。ある雪の日の朝、清顕は聡子に誘われ、人力車で雪の見物に向かう。白銀の外界と対照的に火照った俥(くるま)の中、彼らは初めての口づけを交わすこととなる。俥の幌(ほろ)を開けると、彼らの赤らむ頬に雪片があたり、溶け崩れた。

 

 しかしその後、時には涙、時には好意で清顕をたぶらかす聡子の態度に、彼は自尊心を傷つけられる。そのような中、聡子と皇族との縁談の話が持ち上がる。それまで縁談を断り続けていた彼女は、清顕に引き止めてほしいと願うが、意固地になった彼は聡子を突き放してしまう。そして彼女が縁談を渋々承諾する段になると、今までの不器用な感情が愛情であると気づいた清顕は、かえって燃え上がり、激しく聡子を求めるようになるのである。皇族のいいなずけと愛を交わすなぞ言語道断であるが、衝動的な恋心のあまり、彼らは逢瀬(おうせ)を重ねるようになる。

 

 その後、清顕の親友である本多の協力もあって清顕と聡子は密会を続けるが、ここで聡子の妊娠が発覚する。これにより二人の関係が両家に知れ渡ってしまい、俗世を厭(いと)った聡子は、奈良の月修寺に自ら出家してしまう。

 

 2月の暮れ、清顕は聡子と面会するため再三月修寺を訪れるが、ことごとく断られ、また体の酷使で肺炎を発症してしまう。そして2月26日の朝、春の雪の降りしきる中、清顕は人力車で再び宿から月修寺を目指す。あの雪の日に横にいた聡子はおらず、清顕の目は恋ではなく、病のために熱に浮かされている。しかし、願いを果たすことは今度もできなかった。晩には事情を知った本多が宿に到着したが、既に手遅れであり、清顕は弱冠20歳にして肺炎で逝ってしまう。死の直前、病にうなされながら、清顕は本多にこう言い残した。「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」───。

 

 「優雅というものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を」。これは清顕の科白(せりふ)であるが、同時に三島自身の哲学であるように思える。三島の作品はほぼ全てにおいて、禁じられた愛や到達不可能な美が関係している。同性愛を描いた『仮面の告白』、完璧な美に固執する主人公を描いた『金閣寺』、不倫を重ねる夫人の心情を描いた『美徳のよろめき』……唯一、社会に認められた愛を描いた作品は、男女のプラトニック・ラブを古典主義的に描いた『潮騒』のみであるといってよい。

 

 『春の雪』も例に漏れない。戦前の日本において、皇族のいいなずけと不倫の愛を重ねることは、一等禁じられた愛であり、それゆえそこに一等の優雅、美が存在するのであった。また、三島に同性愛的な傾向があったことは広く知られている(三島は『仮面の告白』において、自らの同性愛傾向を、フィクションという体の「仮面」を用いて「告白」したのである)。しかし三島は自らの同性愛に直接言及はしなかったし、同性愛の社会的地位向上に関しては必ずしも肯定的な態度を示さなかった。彼にとって、同性愛は「禁じられている」という性質において美の到達点であり、また愛の社会的地位についてうんぬんすることは、少なくとも美に関係する文学にとって不要だったのである。「本当の美とは人を黙らせるものであります」(『禁色』より)

 

 三島にとって、人を黙らせる美とは「死」のことでもある。清顕の友人本多によれば、人間は「歴史に関わろうとする意志」を持つとしており、彼は自らを意志的な人間だとしている。一方、清顕は自らの感情と美貌に身を任せ、───意志的の対義語であるところの───宿命的に、なすがままに生きていた。しかし、歴史になにがしかの痕跡を留めることを願う「意志的」で理屈的な本多は、のうのうと生き延びてしまい、放恣(ほうし)に生きる清顕は、あの聡子と俥を走らせた日を思わせる春の雪の中、情熱的な死を遂げることとなる。理屈っぽく、机上でしか物事を考えない醜い青年と、肉体のおもむくままに生きる、官能的で刹那的な美しい青年。この残酷なコントラストは、三島文学の真骨頂と言えよう。

 

 そして次作以降では、清顕の生まれ変わりが作中に登場してくる。清顕の死は仏教的な輪廻(りんね)転生における宿命だったのだ。それでは宿命とは何か? そして、輪廻転生とは何か? しかし我々は、果たしてそのような人生の真理を分析せねばならないのだろうか。美にとって重要なのは描写と感得(かんとく)であり、分析でないのではないか。

 

 死は人を黙らせ、そして美もまた人を黙らせるのである。【三】

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