インタビュー

2022年12月12日

【前編】無言の「軌跡」を追う 無言館館主 窪島誠一郎さんインタビュー

 

 

 今年、開館25周年を迎える無言館は、長野県上田市にある私設の美術館兼、戦没画学生の慰霊施設である。30年ほど前、長野県上田市で夭折(ようせつ)画家たちの作品を展示する信濃デッサン館(当時)を経営していた窪島誠一郎さんは、出征経験を持つ画家・野見山暁治さんと全国の戦没画学生の遺族の元を訪れ遺作の収集を始め、後に無言館を設立した。

 

 十字架の形をした無言館には、収集した戦没画学生たちの遺作が展示されている。彼らの作品には、死を覚悟しているとは思えないほど、描く対象への静かな愛情が感じられる。死を前にして、自分の最も愛するものを選び、画学生たちは出征の直前まで魂を削って絵を描いた。彼らにとって、愛しいものを描き残し心に刻み込むことが、自分の生涯を一枚の絵に表現することが、幸福であり使命であったのだろうか……。

 

 無言館館主である窪島誠一郎さんに、画学生たちの「軌跡」を伝えることの難しさ、そして「詩」や「絵」への思いを聞いた。(取材・本田舞花)

 

画学生たちの記憶のバトンをつなぐ

 

──窪島さんは戦没画学生たちの作品のどのようなところに惹(ひ)かれたのですか

 

 戦争の犠牲になった人たちだから関心を持ったわけじゃないんだよね。野見山暁治という出征経験のある絵描きさんが、今から30年くらい前に「ほっとけば彼らの絵はこの地上から消えていってしまうだろう」と僕に言ったんです。当時戦後50年近くの年月が経ってしまっていたし、彼らは画家として無名で、絵も未熟だからと。

 

 僕は絵描きには、その生身の人間が生きている命と、作品という二つの命があると思っています。絵描きの一生は、その絵が存在する限り消えない。だから戦没画学生の作品が無くなりさえしなければ、その画学生はまだ生きている、と考えているんです。戦没画学生たちの遺作の収集を始めたのは、結局のところ、ほっておけばその絵がこの世から消えてしまうのが、絵が好きな人間として許せなかったからですね。

 

 まあ、当然彼らは未熟ですよね。でも未熟の「未」っていうのは、未知の「未」だし、未来の「未」だし、すごい可能性を持っている。僕は大正時代に22歳で亡くなった村山槐多(かいた)など、夭折した画家の絵に、若い頃から無性に惹かれていました。それは、マッチ1本で燃やせてしまうし、消しゴムでも消せてしまうという、絵が持つ一種の儚(はかな)さが、どこか人間の命と似ているからですかね。それで1979年に、夭折画家の作品を中心に展示した、信濃デッサン館という美術館を作った。僕は絵自体への関心以上に、その絵描きがどう生きて、どうその命が消えていったのかという「軌跡」に興味があります。

 

無言館第二展示館

 

──例えば、伊澤洋さんの《家族》は絵の横の説明を見る前と見た後ではまったく印象が変わりますね。《家族》は、一見、裕福な家族のだんらんのひと時を描いた作品です。しかし、伊澤洋さんの家は、実際は洋さんが美術学校に入学する費用を工面するために、家宝の木を売らなければならなかったほど貧しかったと知り、驚きました。洋さんは家族への感謝を胸に、自分の夢見た幸せな家族の姿を描いたのですね

 

 《家族》の絵はとても象徴的ですけど、僕は25年間彼らの絵の前で暮らしてきて、近頃人間の幸福の原点は、家族に象徴されているんじゃないかと、思うようになりました。無言館のどこか一角に、現代の子どもたちが描いた家族の絵の部屋を作ってもいいんじゃないかなあ、なんて考えています。

 

伊澤洋の《家族》(画像は無言館提供)

 

 

──家族が無言館の大きなテーマなんですね

 

 そうです。しかし残念ながらどのメディアも、無言館を「戦争」で亡くなった「かわいそうな人々」のための施設、という見方でしか伝えていないように思います。平和の尊さや、戦争という不条理、人間の愚かさといったバックグラウンド抜きに彼らの絵を語る訳にはいかないんですけれど、ただそれだけではない。

 

 僕は美術館から帰る坂に自問坂という名前をつけたんですよ。やはり無言館は「この絵を見た後の自分がどう生きるか」「自分は今までにちゃんと生きてきただろうか」と考え、自分に問いかける美術館だろうと。

 

 僕自身、ずっと家族なんて、自分の自立とか独立には邪魔なものだと思っていました。でも、長年彼らの絵に向き合う中で、やはり自分は一人で生きているんじゃなくて、ごく身近な人たちによって支えられて生きてきたんだと、教えられましたね。

 

 無言館では、毎年4月29日に成人式を行っています。その際、新成人の方には「二十歳の決意」ノートに当日の感想や将来の夢などを書いてもらうのですが、「生まれて初めて家族のことを考えた」といった言葉が多いです。そうしたところに無言館の存在価値というか、アイデンティティーがありますよね。

 

 しかし、無言館の館主だからという理由で、自分が平和運動のリーダーのように祭り上げられているのには、すごく違和感があります。信濃デッサン館は自分がコツコツ貯めたお金で作ったものですから、本当のコレクションと言えるんですけどね。無言館だって、自分でお金を捻出して作り、全国を回って作品を集めたんだから、どう考えてももっと胸を張っていいはずなんだけど、こっちはコレクションじゃないんです。預かり物なんだよね。「兄の絵をよろしくお願いします」「弟の絵をよろしくお願いします」というご遺族と握手した、あの感触がまだ忘れられない。僕はあの約束を守らなきゃいけないんです。戦後50年ご遺族が守ってきたもの、すなわち絵というバトンを、たまたま、第2走者か第3走者か分かりませんけど、僕が受け取っただけなのです。

 

 

無言館の碑

 

──無言館は、信濃デッサン館と違って責任が伴うということですか

 

 そうなんですよね。74歳の時、大病をきっかけに、仕事に優先順位をつけるとしたら、やはり趣味の仕事じゃなくて、預かった絵を守ることの方が大事だろうという思いが強くなったんです。結果的に信濃デッサン館の方は閉鎖しました。

 

 絵を物として守っていくことは絵の所有者の宿命ですよね。音楽の場合、作曲家が楽譜に表したことを指揮者とオーケストラが表現することで成立します。でも絵は描いたものがそのまま残るので当然劣化します。物としての絵画を守ることをご遺族から託されたと、感じていますね。絵を戦後50年間ずっと守り続けたご遺族がいて、しかも突然現れた僕を信じて手渡してくれた訳ですから。

 

 戦没画学生の絵にもいろいろなケースがあって、弟の絵や兄の絵を大事にしてたんだけど、空襲にあってなくなっちゃったとか。あるいは、恋人だった学生さんが戦死して、残された女性が、再婚する時に絵を守りきれないで始末しちゃった場合とかね。作品が失われてもそういった軌跡も含めて、ある学生にとっては幸福な、ある学生にとっては悲惨な、それぞれがたどった道を伝えてくという、保存。まあカッコよくいうと、記憶の保存っていうのも、絵の物としての保存と同時に託されたんですよね。

 

 

──次は窪島さんから誰かに記憶のバトンを渡していくということでしょうか

 

 そうですね、活字にして自分が体験したことを人に正確に伝えていくことは大事にしています。しかし、僕から若い人に伝えようと思っても、若者と同じ目線に立とうとするのは難しい。お互いの好きな歌手の名前すら聞いても分からないような世代間で、普遍的なことを伝えるのがいかに難しいか。しかしそんな若者たちにも、画学生たちの絵を直(じか)に見ることで、何かが伝わるんですよ。

 

 次の世代に記憶という財産を伝えようと思っても、僕は太平洋戦争が始まった1941年生まれなので、戦前の記憶は定かでない。80歳のおじいさんでも、戦争については、現代の若者と同じくらいしか知らないんですよ。ただ僕の場合は、父や母の苦労を絶えず低温火傷(やけど)のように感じていたから、遠くではあるけどいつも戦争を感じてた。でも、戦争の方を見るのは、何か暗いものを見るようでね、嫌でしたね。なるべく見ないようにしてた。今だって、無言館を続けるのはしんどいですよ。でもやるしかないですね。あと5年かなあ、3年かなあ、とか思いながらも、毎日とにかく全力を尽くしてます。

 

【後編はこちら】

【後編】無言の「軌跡」を追う 無言館館主 窪島誠一郎さんインタビュー

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