報道特集

2025年7月9日

【報道特集】能登半島地震から1年半 奥能登の現状はいま

 

 2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震。マグニチュードは7.6と、日本で起こった内陸断層型地震では、1891年に発生した濃尾地震(M8.0)に次ぐ国内最大級の地震であった。震源に近い「奥能登」(珠洲市、輪島市、能登町、穴水町)では震度6弱以上の揺れを観測し、甚大な被害をもたらした。

 

 特に奥能登地域には古い住宅が多く、耐震化率が50%前後と、全国平均の87%(2018年)を大きく下回っていて、住宅の倒壊被害が相次いだ。人的・物的被害だけでなく、応急仮設住宅への転居や、二次避難による人口流出などで、それまでの地域コミュニティーが分断される難しい局面に置かれた。地震から1年以上が経ち、全ての避難所が閉鎖されたため、4月25日に石川県は「災害対策本部」を解散した。7月1日現在、能登半島地震での死者は災害関連死を含め618人に上る。

 

 マスメディアでは目立つ報道が減少し、とりわけ首都圏に住む私たちが能登について考える機会は減少している。奥能登の街全体がいまどのようになっているかということを知りたかった記者は4月22、23日に奥能登へ向かった。いま現地がどのような状況なのか、記者が見た姿をありのまま伝えたい。(取材・吉野祥生ほか)

 

被害の爪痕が色濃く残る奥能登

 

①門前町

輪島市街から車で1時間の場所にある、輪島市門前町。かつて曹洞宗の大本山であった總持寺祖院(そうじじそいん)があり、門前町として栄えた。總持寺祖院はこの4月に通常の拝観受付を再開したため、記者も訪れてみたが、威風堂々とした山門は健在であるものの、地震の影響で建物が大きくゆがんだりする被害が見られた。

 

總持寺の山門。かつては曹洞宗の大本山として栄えた。今もその威容は変わることはない
地震の揺れで建物が大きくゆがんだ場所も目立った

 

 總持寺祖院は取材に対し、「地震より参拝者の数は通常には戻ってはいないが、少しずつ訪れる方がいらっしゃいます。(通常通りの拝観が再開したことに対して地元の人は)寺に参拝して町を歩いていただくことで、活気がでて喜ばしいとおっしゃっていただいております」とコメントを寄せた。

 

 また、門前町では海岸の隆起が特に顕著で、東大の調査によると3メートルから4メートルほど隆起しているとされる。記者が訪れた際も、少し沖のほうまで白っぽい地盤が露出しており、漁港内も隆起の影響でいまなお漁船の出入りが不可能な状態となっていた。自然の威力を改めて感じる場所だった。

 

消波ブロックや堤防の位置からも海岸線の位置の変化が分かる

 

②道路・空港

 奥能登全体のインフラについての現況はどのようなものだろうか。域内の主要な道路は、奥能登の海岸線付近をおおむね環状に結ぶ国道249号で、一部区間では地震および昨年9月の豪雨災害で甚大な被害を受けたものの、応急復旧工事が終了し、昨年の12月に全線で通行が可能になった。しかし、片側交互通行になっている区間も多く、特に被害が大きかった区間は、地元関係者や災害復興関連車両のみ通行可能となっている。奥能登と金沢方面を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」は、全線で通行が可能になっているが、こちらも一部区間で片側交互通行になっているほか、地震の影響で路面に大きな起伏があり、最高速度が規制されている。

 

国道249号の一部の区間は、応急復旧の形で片側交互通行となっており、地震前の路盤は消失している

 

 輪島市には空港(のと里山空港)があり、地震前と同じく羽田空港から1日2便ジェット機が就航している。東京から奥能登地域に直接アクセスする際は、羽田空港から約1時間と、最も速くて便利な手段だ。しかし、記者が搭乗した際には着陸前の機内で、「地震の影響で滑走路に起伏があり着陸後に揺れる」というアナウンスがあった。実際、機体が接地後に、通常では考えられない上下左右方向の揺れが発生しながら飛行機が減速した。

 

のと里山空港の滑走路を機内から望む。右手に見えるのが空港のターミナルビル

 

 

少しずつ進む奥能登の復興

 

③白米千枚田

 輪島市東部に位置する白米千枚田(しらよねせんまいだ)は、海岸にせり出した崖に築かれた棚田。風光明媚(めいび)な観光名所として整備されているほか、その景観や文化的な価値から世界農業遺産に登録されている。白米千枚田を含む輪島市では能登半島地震で震度6強を観測したが、復興への取り組みは速かった。2024年度に「棚田オーナー制度」による棚田のオーナー募集を行ったほか、25年のゴールデンウィークから隣接する道の駅が営業を再開した。地域の農業生活の象徴として、そして奥能登を代表する観光地の一つとして、復興への光を照らしている。

 

白米千枚田。訪れた4月下旬は田植え前だった。左手に日本海を望み、里山の原風景が残る

 

④輪島朝市

 奥能登で最大の市街地である輪島市街では、1階がつぶれた状況の家が残っていたものの、解体作業が進みすでに撤去が完了している場所も多かった。輪島朝市で有名だった「朝市通り」は、地震後に発生した火災で焼失した。現在は、残った建物やがれきはほとんど撤去され、広大な更地となっている。一部区画はまだ撤去されず地震当時の状況で残っていると思われる状況であった。

 

輪島朝市が軒を連ねた「朝市通り」。公費解体は完了し再整備に向けた測量が行われている
電柱が焼けただれた状態で残っていた。火災の威力を感じさせる

 

 輪島朝市は現在、市街にある商業施設「ワイぷらざ輪島」にて出張開催中。商業施設の1階フロアに、オレンジ色のテントを構えた店が30店鋪ほどで営業を再開した。商店が取り扱うのは地元の豊かな海産物から日用品、そして輪島塗や珠洲焼といった優れた工芸品まで多岐に渡り、店員が活気よく販売する姿が目につく。能登の人は外向的、と聞いていた評判はその通りだった。というのも、それぞれの店の前を通るたびに、店員が商品の自慢をする。地域の宝は生きているのだ、という確かな感覚が、復興道半ばの地域の希望のように感じられた。

 

 地域の希望が見出されたのは、決してモノの話だけだはない。輪島朝市に出店するある店舗の店員はこう語る。「輪島朝市は現在は移転しているけれども、いつかもとの場所に戻った時に向けて、仕事を掛け持ってお金を貯めています」。地域の人々もまた、地域の再興に向けて、前を向いているのだと感じた。

 

⑤珠洲市

 珠洲市は能登半島地震で震度6強を観測。100人を超える死者を出し、現在でも市内北部には復旧もままならない地域が存在する。一方で、中心部の飯田地区では建物の再建が進んでいるほか、市内各地を結ぶコミュニティバス「すずバス」も運行を再開。暮らしの再建は少しずつ進んでいる。

 

珠洲市内の漁港にて

 

⑥能登町

 復興はまだ道半ばの奥能登。奥能登の南側に位置する能登町の、巨大イカ像で有名な小木地区ではいまだに解体工事が行われていた。能登町役場の灰谷貴光さんも「苦しい、悔しいという感情が感じられます」と語る。一方で、復興に光も見える。長らく減便が続いていた、のと里山空港と羽田空港を結ぶ航空便は震災前と同様の1日2便に復便。東京からも能登を訪れやすくなった。

 

2021年に設置された巨大イカモニュメント「イカキング」。観光地として復興の拠点となるか

 

 「今来なくていつ来るんですか」。灰谷さんは段々と変わっていく奥能登の現状を知る大切さを力強く語った。2017年から行ってきた東大生の受け入れも、24年度も実施した。商業施設「イカの駅つくモール」は24年4月から営業を再開しており、地域の特産品を販売している。

 

能登町役場で復興支援に携わる灰谷さん

 

 能登町は日本4大杜氏(とうじ)の一つである、「能登杜氏」の由来の地であり、酒造りが盛んである。能登町内にある3軒の酒蔵は能登半島地震で被災したが、県外の酒蔵と連携するなどして醸造を再開。自前の酒蔵での醸造再開も進む。災害は地域に暗い影を落としつつも、復興は少しずつ進んでいる。

 

 

 2024年に相次ぎ発生した能登半島地震と豪雨災害。二つの災害は奥能登の風景を一変させ、人々の暮らしに大きな爪痕を残した。地方という奥能登の属性ゆえ復興が遅れているとの指摘は無視できない。一方で、被災地たる奥能登は暗い影に覆われているわけではない。新たな暮らしに向け、「希望」を持って生きる人々の存在を忘れてはならない。

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