今回は、1945年7月21日発行の「大學新聞」より、「至純なるいのり 帰還した海軍の友を囲んで」を転載する。学徒達が特攻を含め、この時局をどう見ていたかがうかがえる記事だ。当局による検閲下の記事ではあるが、「当時」について考えるきっかけにしてほしい。(構成・溝口慶)
至純なるいのり 帰還した海軍の友を囲んで 東大理 谷昌恒
陸軍へ行っているH君から、君が南方へ飛んだ筈だという話を聞いたのはもう一月は前になる。それが不意に1日、君の中学の同窓のM君が僕の教室へ来られて「A君がね──」といきなり話し出された時は一寸応えた。しかし何よりも君が無事で今逗子の家に帰って来ているということを聞いた時は実に嬉しかった。
其夜1年振で逢った君の全くさり気ない様子は、M君が「……実は海でボチャボチャ沈んで」といって説明した飄逸(ひょういつ)な言葉を想出させた。実際君は何でもないことをやって来た様な顔をしていた。武者振が板についたというよりも、1年見なかった君が、残念ながら僕の此の1年間ではどうあっても太刀打ち出来ない、大きなずっしりしたものを掴みとってしまったんだとあの夜いく度も思った。
艦が沈められたことは繰返し無念がって、自身のことは何一つ触れない君に執拗に迫る僕に、敵機下の海を泳いで得たものといっては、そうさ、無欲になったな、と答えた。本当に恬淡になり切れた様に思える。勿論所持一切を失くしたので改めて軍装を整える為に相応の証明書も出て、仲間でこの際にというわけで二通り三通り用意しようとさえした奴もいたが、唯身につける一通りの他はなんにも要らないと心から思った。と語った。もっとも又東京へ帰って来てそろそろそんな気持も怪しくなったがね、と君はそっとゆかしく笑った。
此の艱難(かんなん)の時を同じくする私達の世代が、うんうんともう無言で頷き合える共感、魂の奥底の交流と云った様なものに話はなっていった。確に学徒の勤労動員態勢は配置にしても、管理にしても全くレベル以下の愚劣さではあるけれども、そんな責は此の一世代前のもの。成程勉強はしないかも知れない。学習は出来ないかも知れない。併しあんなに若い幼いうちからあんなに一所懸命に何かをやっていて、それで何も掴めないと云うことは絶対にないよ。必ず何かを掴み得て呉れるよ。私達はそんな事も云い合った。
此の現在が如何に激しい、きびしい、苦しいものであろうとも、必ずその次の世代と云うものがある。その時代がどう云う風に展開してゆくであろうか。いや、開かせてゆくべきであろうか。鍛い抜かれた実力と実力との世の中になるさ。実に明るくなると思う。強くなると思う。と。
併し斯んな奴もいるんだ。学徒出陣で出て行っても、航空にもならず戦にも出ずして、東京勤めの様なものになって残っている者もあるがそんなことがあってもだね、そんな連中が生残っていても、次の時代には見る間に蹴落されてしまうね。瞬く裡に完全に淘汰されてしまうから問題でないさ君、次の時代はそんな時代だろうと思う。またそんな時代が来なければ嘘だと思うね。そして親達は今、そんな子供達を生かそうなどと考えて結局殺すのさ。本気で突出した親達が、死んだ而も本当に生きて還って来る息子達を得るに違いないと思ふ。とようやくにして昔日の能弁を取戻した様な君の言葉は、併し実に簡で鋭くもあった。
M君がその時、彼の病院の看護婦が帝都上空の空中戦を見て、何故あの戦闘機は体当たりをしないのだろう、と嘯いたと吐き出す様に云った。それを聞いて3人は激した。そんな事を云っている連中の気持は知れ切っている。愛国者ぶった、勇者ぶった口先。併し果してそれが愛国の気持なのだろうか。否。否。独専的な叱咤的な言説のみ多かった此の国の、未だに跡を絶たない高見な気持なのではなかろうか。僕等の、グラマンも打ちまくったと云う君を交えての、その夜の悲憤は感傷などは遥に越えて深い魂の慟哭であった。我々はもっともっと切なる至純なる祈りの気持をとり戻さねばならぬ。
「──風のように迅速に襲来し、民族を救い、あるいは世界を解明するような戦争──。その素晴らしさは英雄精神と果敢なる犠牲心とに存する。しかしこれら2つの力は次第にその決定的な役割を演ずることがなくなってゆくらしい。そう云うものは大衆と機械とによって平坦にならされ、無駄に費されてしまうのである。」
君、斯んな句がカロッサにあったろう。あのもろい小さな戦闘機が、固いただでかいB29に打当たるその気持は、もう此の世ならぬ神の世界においてのみ勝を決し得る悲劇的なものではなかろうか。
馬鹿、文学理科生が何をいうか。硬い火の玉が、ヘナヘナのB29の胸腹に打つかってゆくんだ。そして此の現実の世界ではっきりとした勝利を闘い護るんだ。ガダルカナルの生残りの話を聞いたか。某基地へ来て、私達は一人十殺すまでは決して死にません。ときっぱりと誓ってまたあの島へ渡ったんだ。三粒の米を一月押斂きながら食べていたのだ。それで君、あの力、あの怪力が出るんだ。
俺が出たあとでどんな本が出たろう。ジルソン、クラウス、ドウソン。ずいぶん中世の文化・哲学を取扱ったものが出たな。中村博士の封建社会なぞも印象深かった。何かを乗り越えようとしている。現在の気組をありありと感ずるね。ところで「ロダンの言葉」の訳などはずっと前のことだったけな。ああ、あれなら知っている。よかったな。うん。併し今の俺にはしみじみあんなものを読む気は一寸しないね。そうかなあ。まあいい君達が帰って来る迄、僕達が五山文学派を以て任ずるよ。壁にでも塗り込むか。
※1944年7月から1946年4月の間、全国の学生新聞は『大學新聞』に一本化され、本紙の前身『帝國大學新聞』の編集部が編集を主に担っていました。終戦から80年の節目を迎え、戦争の当時を語る人々は減る今、遠い存在となりつつある「当時」を考える一助になれば幸いです。