インタビュー

2015年9月29日

「伝えたいもの」はない。ではなぜ撮るのか?観察映画論:映画作家想田和弘さん 

事前の打ち合わせや台本なし、ナレーションもテロップも音楽も使わないドキュメンタリー映画。東大OBでもある想田和弘さんはこの「観察映画」という独自のスタイルを確立したドキュメンタリー映画作家である。監督・撮影・録音・編集もほとんど一人で行い、これまで『選挙』や『精神』といった作品で大きな話題を呼んできた。今回は、最新作『牡蠣工場』がロカルノ映画祭やバンクーバー国際映画祭に招待され注目を集めるなかで、観察映画論や想田さんご自身について伺った。

 

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興味を惹かれる世界をよく見させてもらい、よく聴かせてもらう。その方がオーガニックな映画ができる

 

—『選挙』に始まって『精神』『Peace』『牡蠣工場』など7作の観察映画を撮られていますが、観察映画を撮るにあたってどのように題材を決めるのですか?

 

興味がある世界にカメラを向けさせてもらいます。下調べ・打ち合わせ・台本作りなどは一切せずに。最新作である『牡蠣工場』のときは、漁師の世界に興味があって。舞台である岡山県・牛窓の漁協組合の組合長さんと夏に知り合い、秋にカメラを持って訪れると「今は牡蠣で忙しい」と仰るので、牡蠣の養殖の現場を撮らせてもらいました。

 

秋に訪れるまでは、牡蠣をメインにした映画になることは僕も予期していなかったですよ。もっと普通に魚を獲る漁業についての映画になると思っていました。あと、完成した作品では、中国人の出稼ぎの方たちが物語の一つの柱になっていますが、僕は現地に行くまで彼らが中国からやってくることも知らなかったです。

 

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最新作『牡蠣工場』でのワンシーン

—テーマも決めないんですよね。

 

はい、決めません。ほとんどのドキュメンタリー作家やジャーナリストはテーマから入りますよね。そしてそのテーマのためには何を描こうか考え、下調べをして登場させる人を選び、大まかな筋書きを思い描いておく。

 

でも僕のやり方は、下調べも台本もテーマもなし。まず自分が興味を惹かれる場所や人の世界をよく見させてもらい、よく聴かせてもらう。そしてそこから何が見えてくるか、という順番です。その方がオーガニックな映画ができると思うんです。登場人物を「テーマを描くための道具」にしないで済む。下調べによって先入観を持ったり、テーマや筋書きを決めたりすると、こういうコメントが欲しい、こういう場面がほしい、こういう人を登場させたいというように、そのテーマを描くために人物を使おうとしてしまう。

 

しかもより刺激が強い場面や、より強烈な人物を欲しがちになるんですよ。その方が映画が刺激的になるから。僕はその感覚が好きじゃなくて。撮る側と撮られる側の関係が全然ハッピーではない気がするんですよね。そうではなくて、その人たちの世界を描かせてもらう。そこから出てくるものって、すごく自然で必然的なものだと思うんです。

 

 

—では、「映画を通して伝えたいもの」なども考えないで撮るのですか?

 

「伝えたいもの」はないです。「伝えたいもの」というように言語化できるものはなく、自分が見たものを「体験記」として映画に構築して観客と共有することが僕にとっての目的です。だから映画が完成したときに、「この映画を通して何を伝えたいんですか」と言われても、わからないですよね(笑)。あえて言うなら「体験」を丸ごと伝えたいわけで。そこで流れていた時間や空気感も含めてね。

 

もちろん、僕の視点でカメラを回し編集するので、僕の目線で切り取った世界が描かれます。だからとても主観的なわけですが、僕の価値判断は極力入れてない。価値判断は観る人でそれぞれだし、それぞれの解釈があっていいと思うので、価値判断の一歩手前のところで止めるように作っていますね。だから、テロップやナレーション、音楽といった、一面的な解釈を押し付けかねない装置は使わないようにしています。

 

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観察映画第1弾『選挙』でのワンシーン

 

−作品の中での自分に関してはどのように捉えていらっしゃるのでしょうか?

 

僕が観察映画を志したきっかけの一つは、同じくテロップや音楽、ナレーションを一切使わないドキュメンタリーを作るフレデリック・ワイズマン監督の作品でした。彼はカメラや撮影者の存在を意識させないために、一切自分の姿や声を作品に登場させないスタイルをとっています。

 

だから初作品である『選挙』では彼の真似をしたくて、なるべく自分の声が入っているところはカットし、自分の存在を消すことを基本としていました。しかし、精神科診療所を舞台とした『精神』を作っているときに行き詰まってしまったんです。患者さんにカメラを向けて回していると、みんなが僕にどんどん話しかけてくるんですね。「僕はここにいないつもりでお願いします」といっても全然聞いてくれない。

 

でも話しかけてくるときの話がすごく面白いんですよね。撮りながら「これ、使えないだろうな」と思っていましたが、編集のときに「こんなに面白い場面が使えないとしたら、自分のポリシーは、一体何のためにあるのか。面白い映画を作るためにあるのがポリシーなのであり、それが面白い映画を作ることを妨げているのであればそのポリシーに何か間違いがあるはずだ」と感じました。

 

そこで、学生時代に宗教学で学んだ参与観察の方法を思い出して、観察映画でも目の前の現実だけではなく、自分を含めた世界を観察すればいいんだと考えたんですよ。「ドキュメンタリーは参与観察でいいんだ」って。それから自分と被写体の自然な会話ややりとりは映画に残すようになりました。ドキュメンタリーでは、撮るものと撮られるものの関係性でどんな映画ができるかが規定されていくわけですから、今では撮影者の存在を何が何でも消すことにあまり意味はないと思っています。

 

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『精神』撮影時の想田さん(写真=山本真也氏)

 

観る人それぞれの化学反応

 

−想田さんの作品は観れば観るほど、意味合いが変わってきたり新しい意味が付加されたりして面白いです。これも観察映画ならではだと思います。

 

そう言ってもらえると嬉しいです。観客の中で何らかの化学反応が起きることを期待して、映画を作っています。その反応はゆっくり進行して10年後に「あぁ!こういうことか!」となるのでもいい。そして人それぞれの反応で良い。僕が映画で届けるのは「体験」ですから、その体験に対する僕自身の反応と、観る人の反応とでは違うはずですよね。僕の反応が正解なわけではなく、ある一人の反応にしか過ぎないと思っています。だから、僕には僕の映画に対する僕自身の解釈があるけれども、それをあんまり公言しないようにしています。作り手の解釈を言ってしまうと、どうしても観客はそれが「正解」だと思って観てしまうので。

 

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ニューヨーク・アストリアにて取材させていただきました。

 

−テーマやメッセージとは異なった部分において、多くの人が想田さんの作品に感銘を受けます。なぜだと思われますか?

 

なんというか、映画ってテーマやメッセージで観るものではないと思うんですね。僕の映画がそうだというわけではないんですが、一般に優れた映画を観たときの感動って、例えばモネの絵を見たときの感動と似ているんじゃないかと思います。モネの睡蓮が具体的に何を表し、どんなメッセージを発しているのか多分誰もわからないと思いますが、それでも「いいなあ」と思うじゃないですか。映画もそういうものだと思います。人間にはそういう言語化できない部分でコミュニケーションする能力があるし、そういうレベルで何かを感じたり好きになったり嫌いになったりするんだと思います。

 

(文・インタビュー 新多可奈子)

後編はこちら:「世の中の奴隷になるな。違和感は大切に」映画作家想田和弘さん 後編

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