GRADUATE

2022年12月1日

【前編】東大在学中に七大陸最高峰登覇→コンサル→起業 山田淳さんインタビュー

 

 七大陸の最高峰全てに登頂した「セブンサミッター」の山田淳さん。東大在学中の2002年にエベレストに登頂し、当時の七大陸最高峰最年少登頂記録を更新したが、卒業後は一度山の世界を離れ、コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニーで働いた。その後起業し、現在も代表を務めるフィールド&マウンテンを経営する傍ら、ガイドとして山に登り続ける山田さんに、七大陸最高峰へ挑戦した時の思い出や、大学生へのメッセージを聞いた。(取材・安部道裕)

 

インタビュー後編はこちら

 

学生時代は山一色

 

──登山を始めたきっかけは何でしたか

 

 ぜんそく持ちで体が弱かったので、その分頭で勝負したいと思い灘中学に入学したものの、体が弱いのはコンプレックスでした。体を強くしたいと考える中で「人と競わなくていいスポーツ」というある意味ネガティブな理由から登山に興味を持ち、中1でワンダーフォーゲル部に入部しました。

 

──登山にハマったのはいつでしたか

 

 思い入れがあるのはワンゲル部に入って初めて本格的な登山を経験した屋久島です。神戸で生まれ育ち、あまり自然と接してこなかった中で、屋久島に行くと360度自然に囲まれている。自然の中に自分がいるという感覚がものすごく新鮮で感動しました。大人になって会社を創業した際、埼玉のオフィスに加え屋久島にも事務所を作るほど思い入れがありますね。

 

中学時代、ワンゲル部のテントにて(写真は山田さん提供)

 

──その後東大に進学しています

 

 東大を選んだのにはいくつか理由があります。まず一つ目は親元から離れて1人で生活してみたかったから。二つ目は登山を続けたい、海外の山に挑みたいという思いがあったから。高校時代に読んでいた植村直己さんの『青春を山に賭けて』(文藝春秋)や沢木耕太郎さんの『深夜特急』(新潮社)の影響で、海外に憧れるようになりました。

 

 海外に出るには東京にいた方が良いのかなと漠然と考えて、灘から進学する人が多く、かつ東京にある東大に進学しました。入学してからはバイトして山行ってバイトして山行っての大学生活。学業ではなく山が本分でしたね。

 

──山登りの面白さはなんですか

 

 自分にとって登山は、読書や旅行と同じで知的好奇心を満たす行為です。中高で国内の山を登る中で、ふと「富士山より高い所はどういう所で、登ったらどういうことが感じられて、どういう景色が見られるんだろう」と興味が湧いてきました。本を通じて海外の山を知り、世界で一番高い、エベレストに登ってみたいと思うようになりました。

 

──02年に七大陸最高峰登頂の最年少記録を更新していますが、なぜ記録の更新を狙ったのですか

 

 エベレストを狙う中で、七大陸最高峰は格好のステップアップでした。

 

 その理由は大きく分けて二つあります。一つは金銭面。最後のエベレスト、その手前の南極は学生がバイトで稼ぐ額では届かないぐらいの費用が必要なことは分かっていました。そのためにはスポンサーが必要です。世界七大陸最高峰登頂の世界最年少記録。その更新を狙えばスポンサーを得やすいのではないかと思ったのです。

 

 登山はマイナースポーツなので、メジャースポーツと違い、金銭の工面からアスリートの役目なんですよね。例えば野球選手なら、スタジアムの採算まで考える必要はなくプレーするだけで良い。興行として成立しているので、選手に対してある程度の経済的な見返りを約束できます。一方登山のようなマイナースポーツは、スポーツだけでは稼げないから別のことで生計を立てないといけないし、そもそも競技にかかるお金も自分たちで準備しないといけない。

 

 加えて、日本では登山はレジャーと認識されていることも、登山家が金銭的に苦労する要因になっています。富士山を白装束で登ることがまさにそうなんですが、日本では登山はもともと信仰によるものから始まっているので、ヨーロッパと異なり登山がスポーツとして認識されていないんです。そのためスポンサー集めが難しいのです。

 

 もう一つの理由は、七大陸最高峰の中で圧倒的に難しいエベレストに登るのに必要な技術・経験のピースを、他の六つの山を登ることで埋められると思ったから。当時、登山経験は日本国内の山しかありませんでした。なので例えばマッキンリーでは雪陵(せつりょう)技術を学ぶ。南極では寒さを学ぶ。アコンカグアでは標高を学ぶ。七大陸最高峰自体はツールで、あくまで目標はエベレストでした。

 

──エベレストに登りたいと思った理由は何ですか

 

 富士山のガイドをやっていて通算で400回くらい登っていますが、富士山に登りたいお客さんの気持ちはすごく分かります。「日本で一番高い山だから登りたい」。それと同じ感覚ですね。世界一高い山だから登りたかった。「エベレストは簡単になった」「お金さえあれば登れる」などと言われることはありますが「世界で一番高いところに立ってみたい」という登山家というより一人間としての欲望がありました。

 

ベースキャンプよりエベレスト山頂を望む(写真は山田さん提供)

 

──エベレストの登頂に成功した瞬間はどう感じましたか

 

 登頂の瞬間に考えることは「早く降りなくては」です。これは登山の難しさでもありますが、登頂に成功した瞬間が一番危険な場所にいるんですよね。頂上で感慨にふける暇はありません。エベレストの頂上の標高8848メートル地点では酸素が地表の3分の1程度しかなくて、酸素ボンベのメーターが命のメーターです。酸素が残っているうちに下山しないといけないし、下山中の事故も多いので気を抜けません。そのため、ベースキャンプに戻って初めて「やり切ったぞ」と感じました。

 

エベレストの最終キャンプにて(写真は山田さん提供)

 

──七大陸最高峰登頂に当たってはどんな困難がありましたか

 

 海外での登山で難しいのは「もう一回」がほぼないことです。例えば富士山や槍ヶ岳は天気が悪ければ、また別の機会にチャレンジすれば良い。しかし、海外の山は、時間や金銭的な問題を考えると、その時に絶対に登らなければいけない。最年少記録への挑戦があったために、一回一回が絶対に失敗できない勝負でした。

 

──04年に自身の最年少記録が塗り替えられましたが、その時の気持ちを聞かせてください

 

 特に残念でもなくて、何も感じませんでした。更新した時からいつかは破られる記録だと思っていましたし、あくまでエベレストに登ることが目標だったので、最年少記録に対して特段価値を感じていませんでした。最年長記録とは異なり最年少記録は原理的に破り返せないので、人と競う記録ではないんですよね。マラソンのタイムを縮めることとは少し意味が違っていて「記録を作った瞬間引退」みたいな感じですね。

 

 

山田淳(やまだ・あつし)さん 99年東大文Ⅱ入学。02年に七大陸最高峰登頂の最年少記録更新。06年経済学部卒。マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社後10年にフィールド&マウンテン設立。著書に『夢へのルートを逆算せよ!マッキンゼーを辞めてまで、ひとりでアウトドアベンチャーを始めた男の7つの成功ルール』(マガジンハウス)

 

インタビュー後編はこちら

 

タグから記事を検索


東京大学新聞社からのお知らせ


recruit

   
           
                             
TOPに戻る