教養

2021年7月7日

【東大CINEMA】『羅生門』

 「一体正しい人間なんているのかい? みんな自分でそう思ってるだけじゃねえのか?」

 「人間という奴は自分に都合の悪いことは忘れちまって、都合の良いウソを本当だと思ってやんだい そのほうが楽だからな」

映画『羅生門』より、下人

 戦乱で荒廃した平安の京都に降る豪雨の中、無惨な姿の羅生門の軒下で下人、杣(そま)売り、旅法師の3人が雨宿りをしている。そこで、下人は奇妙な話を聞く。京都の山中で起こったとある事件の話だ。

 

 物語は、杣売りが山中で武士・金沢武弘の死体を発見したことに始まる。彼は検非違使へ届け出て、生前の金沢を目撃したという旅法師と共に取り調べを受けることに。その場に捕らえられていたのは、洛中に名高い盗賊の多襄丸(たじょうまる)。反省の色をつゆも見せない彼はこう主張する。いわく、もとは金沢を殺すつもりはなかった。しかし金沢の妻・真砂を辱めた後、夫に面目の立たない彼女が「決闘の勝者の方の妻になる」と言い出し、その末に自分が金沢を殺したのだ、と。また、事後に真砂の持っていた螺鈿(らでん)の短刀が紛失したが、この件については彼は関与していないと主張した。続いて、決闘の間に姿を消した真砂が取調べを受ける。彼女は辱めのあと、夫の軽蔑の目に耐えきれず自らが夫を刺し殺したと言い張った。最後に巫女が金沢の霊を自らに乗り移して証言する。いわく、手込めにされた真砂は多襄丸に心をよせるようになり、金沢を殺すように懇願。その冷酷さに妻への激しい憎悪を抱いた金沢は、絶望の中で自刃した。彼の胸の上に刺さった螺鈿の短刀は、薄闇の中で何者かに盗まれたという。

 

 ここで4人目の目撃者・杣売りが登場する。実は、金沢の殺害を巡る一部始終を彼はやぶの中から覗いていたのだ。多襄丸は事の後に婚姻を真砂に申し込んだが、彼女は彼と金沢とを決闘させることで縁づく相手を決めようとした。小心翼々な両者の怖気づいた決闘の結果、多襄丸が勝ったが、真砂は行方を眩ました。これが真の顛末(てんまつ)だと彼は告白したのだった。

 

 黒澤明監督作品『羅生門』は、芥川龍之介の小説『羅生門』とは全く筋書きが異なっている。劇中では主に羅生門下、検非違使庁、そして事件の発生した山中という3つの舞台しか存在せず、そこで登場人物らが繰り広げる「語り」により物語は進行することになる。加えてストーリーは人工的かつ簡潔であり、白黒映画ということも相まって、とてもシンプルな印象を受ける。しかしながら、構成と映像の単純さこそが主人公らの迫真の演技を際立たせ、また彼らの肌から吹き出す汗や豪雨に打たれる羅生門といった映像美を作り出している。

 

 この物語は、それぞれ全く異なる3つの「事実」が登場し、どれが真相かを決定しえない観客の思考は宙吊りになる。そこに登場するのが、真実の語り手たる杣売りである。彼は3つの偽の「事実」を否定し、より確からしい「真の『事実』」を語り始めるのである。観客は杣売りの語りに大いに安心し、真相の語り手を全面的に信頼するようになる。しかし、彼の説明にも一つ欠陥があったのだ。それは螺鈿の短刀の所在である。

 

 杣売りの話を聞き終わった下人は雨が止むと、羅生門の下で泣いていた捨て子の衣服を盗んで立ち去ろうとする。杣売りが彼の手前勝手な行動を止めにかかると、下人はしたり顔で螺鈿の短刀の所在を杣売りに尋ねる。杣売りは、自らが金沢の胸の上に刺さった短刀を盗んだ事実を隠して、下人の非道を批判していたのだ。

 

 現代は「ポスト真実」の時代と言われる。他者の言説を虚偽であると糾弾する張本人が、実はフェイクニュースの発信元であるというのは珍しい現象では全くない。現代において真実の対概念は虚偽ではなく、自らこそが真実だと主張する「もう一つの真実」となってしまった。この作品は、白黒映画の時代に21世紀の「ポスト真実」時代を寓意的(ぐういてき)に描いていたといってよい。旅法師は「人という人が信じられなくなったらこの世は地獄だ」と言ったが、それでは、いかなる他者の主張も信じることのできない現代社会は地上の地獄なのだろうか。そうではない、とするのが黒澤からのメッセージなのではないか。物語はこう続いている。

 

 杣売りは、無意識に自らの罪を隠していた自分自身に対する不信に驚愕(きょうがく)し、呆然とする。しかし、肌着1枚の赤子を不憫に思った彼はその子を引き取ることを決意し、赤子を抱きかかえながら雨の上がった羅生門を離れる。

 

 人々は己にさえ嘘をつき、都合の悪い真実より都合の良い嘘を信じる。また、嘘が嘘を指弾する中で真実を裁断することは、いかなる誠実な人にとっても非常に困難である。そのような嘘の蔓延(はびこ)るこの世においてさえ、唯一信じられるのは人間愛の精神である。無償の愛こそが人々を相互に信頼させ、希望の光を作り出すのである。黒澤は、単に人間の醜悪さを表現してよしとするのではなく、むしろその醜悪さすら乗り越える人間と愛情の偉大さを伝えたかったのであろう。【三】

 

 

 

 

 

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