文化

2023年5月31日

【100行で名著】「くだらないことだけ書いた」文学 マンボウが行く変てこ青春航海記 北杜夫『どくとるマンボウ航海記』

 

 

 「困ったことに、私はそばを船が通るとすぐ魚雷でもぶっ放したくなる。それから小島でもあるとすぐに占領してしまいたくなる。べつに日本のものにするわけではなく、新しい国を設立するためである」。そんなドクターあるいはマンボウこと著者北杜夫の、1958年11月から翌4月にかけて水産庁の漁業調査船「照洋丸」の船医を務めた経験を基にした航海記だ。

 

 ドイツに渡ろうと留学生試験を受けるも落とされ憤慨した著者は、先輩にそそのかされるなどして「照洋丸」に乗り世界一周の航海に出る。船はシンガポール、エジプト、ポルトガル、ドイツ、オランダ、フランス…と東半球中の諸国に立ち寄りつつマグロを求め海を行く。

 

 船の上では間違って十倍量の下剤を飲んだりピストルで催涙ガス弾を乱射したりしつつ、船員を治療したり時にはしなかったりしてサポート。案の定「ドクターなんぞが上陸した日には、たちまち対日感情がわるくなる」と言われるなど、船員からはあまり信頼されていないようだ。船を降りればスエズでは物をたかられ、イタリアでは耳栓を詰めてオペラを観賞し、スリランカでは激辛カレーにもん絶。航海記なので当然ではあるが、航海中と陸地でのエピソードが交互に収録されており、マンネリ化を防いでいる。ここで挙げたのはほんの一部にすぎず、他にも大量のうそか本当か分からない変てこなエピソードがそれこそ荒波のように押し寄せる。

 

 しかし、変なばかりではない。「船が水をかきわけると、その白い泡立ちが、重い藍色の海面の上を、まるで砂地に寄せる波のような調子ですべってゆく。ときには海上に幾本もスコールの暗幕がたれる日もある」といった調子で、さまざまに表情を変える海の情景描写が巧みだ。美しい光景と奇妙きてれつな事件が代わる代わるつづられ、読者を飽きさせない。

 

 長期間にわたる航海は過酷という印象を抱く読者も多いかもしれないが、この本を読んでいると暗い印象はなく、むしろ著者の爽やかな青春の舞台として映る。

 

 著者は、大切なことは省略しくだらないことだけ書いたとあとがきで語る。確かに堅苦しくなく軽快なノリの文章が続く本書は、普段あまり本を読まない人でもすらすら読めるはずだ。都会で荒波にもまれて疲れたなら、今度は北杜夫が織りなす何だか変てこりんな文学の波にのまれてはいかがだろうか。マダガスカル島の「アタオコロイノナという神さまみたいなもの」に読ませても絶賛するだろう。【不】

 

北杜夫『どくとるマンボウ航海記』(新潮社)税込み572 円
北杜夫『どくとるマンボウ航海記』(新潮社)税込み572 円
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