文化

2022年4月13日

記者=作家=編集者だった? 「編集者」の仕事はどう変化したか

 

 出版物の裏には編集者がいる。昨年、東大卒の漫画編集者千代田修平さんに現在の編集者の仕事について取材し、作家やさまざまな人と協力して作品を作りあげる編集者像を見た。(記事はこちら)本記事では出版・読書文化史が専門の前島志保教授(東大大学院総合文化研究科)と近代文学が専門の出口智之准教授(東大大学院総合文化研究科)に、明治時代から戦後までの編集者の仕事内容について取材した。新聞や雑誌が日本で登場し始めた当時の編集者像と、その変化に迫る。(取材・佐藤健)

 

新たな媒体から生まれた記者と作家の分業体制

 

 編集者の歴史について前島教授は「編集者が裏方に徹するために発言をあまり残しておらず、分からないことも多いのが実情です」と語る。その中でも、新聞や雑誌が定着した明治後期以降、出版の商業化・大衆化が顕著になった大正期から昭和初期を画期として、編集者像に変化が見られるという。



 新聞が日本で登場した当初は、新聞という概念自体が新しいものであり、庶民向けの新聞(小新聞)では、語り口が落語風のものや、いろは順に記事の頭文字を定めて書いたもののような、娯楽性に富む文体の記事が多かったが、やがて事実の報道と創作の区別、記者と作家の区別が生まれていく。「storyという英単語が物語だけでなく新聞記事という意味も持つように、西洋においても、新聞における報道記事は形式や語り口などを変え、次第に物語の叙述とは異なるものになっていったのです」



 新聞では、当初、記者として雇われた作家が創作的な読み物とともに今の社会面に掲載されるような記事を書くことが多かった。その後そのような人々によって、例えば朝日新聞では1892(明治25)年、取材ではなく小説の執筆に専念したいという主張が社内でなされ、分業が進むきっかけになった。さらに、人気作家による連載小説が登場、夏目漱石が朝日新聞に入社し、有名な作品が連載されるようになった明治末期には分業体制が定着したと考えられる。

 

出版の規模拡大により生まれた専業の編集者

 

 雑誌においては、明治時代は作家同士で仕事を割り振って作っていた。「出版業界全体の規模の変化が重要です」と出口准教授は指摘する。商業誌『新小説』では幸田露伴ら作家を編集長に招き、作家の自主的な動きにおいても、森鷗外らの『しがらみ草紙』のように、同人誌を創る動きが盛んだった。論説や創作作品を扱った総合雑誌では、知識人によって寄稿された記事をそのまま載せることが多かったため、編集の仕事自体も簡素なものだった。『新小説』は、作家が編集長として強い権限を持ち、投稿小説の選定や雑報欄の執筆を自ら行ったため、編集部としての機能は弱かったという。ほとんどの雑誌では、現在のように組織として編集部が存在することもなく、作家自らが知り合いの作家や画家に原稿と挿絵を依頼していた。現在も続く、正岡子規らによる『ホトトギス』のような俳句雑誌も、当初は作家自らが原稿を集めて掲載する現在の同人誌に近い形で作られた。

 

森鷗外

 

 また、作品が掲載される際は、作家が完成した原稿を持ち込み、出版社がそれを買い取るという形だった。作家と編集者が協力して作品を作る、現在の編集者のイメージとは異なる。遅筆で有名な明治時代の作家の尾崎紅葉は家屋に閉じ込められ原稿を書いたという逸話があるが、編集者も兼ねた弟子や作家仲間が原稿を取り立てることもあったという。

 

尾崎紅葉

 

 明治後期から大正にかけて出版の規模が大きくなり、雑誌が売れるために必要なことが意識されるようになる。それにつれて編集者の役割が重くなり、作家との分業が進んだ。この動きは婦人雑誌や娯楽雑誌など大衆を意識した媒体において早くから見られたが、総合雑誌にも大正期から『中央公論』の嶋中雄作のような強い権限を持つ名物編集者が登場し、編集者が自身で雑誌の内容の企画や構成を行うようになっていく。出版社の社員が雑誌の企画を行う中で、大正中期から編集長に抜てきされる者が現れ、編集長を中心とする編集部が組織として確立された。こうして、編集者が作家に対して意見するようになり、戦後もその形が定着していったと出口准教授は予想する。「一人の作家に専属編集者が付くという現在のような形は、昭和初期以前にはおそらくなかったでしょう」

 

中央公論は現在も刊行が続いている(画像は中央公論新社提供)

 

 第二次世界大戦後は、芸能雑誌やファッション誌、ゴシップ誌、漫画雑誌、週刊誌など多様な雑誌ジャンルが発達した。同時に、婦人雑誌の『主婦之友』の編集局長だった本郷保雄が戦後、芸能雑誌『明星』を創刊したように、それまで娯楽雑誌や婦人雑誌を編集していた者が異なるジャンルの雑誌を担当し始めた。これによって大衆的な編集手法が多くの媒体に広がっていく。「アートディレクター」のような、それまでグラフ誌など限られた媒体で用いられていた欧米式の職掌名や役割分担も、出版業界に徐々に定着していった。この過程を経て、やがて自ら執筆したり、作家と相談したりと多種多様な方法で作品を作る、現在に通じる編集者像が形成されたと考えられる。出版関係者や作品数などの規模が拡大し、また装丁やレイアウトなどの選択肢が増えたことで、現在の編集者の仕事は多様化している。作家と事前に打ち合わせし、内容の提案や校閲を行うだけでなく、挿絵を描く画家や装丁家、印刷所とも連絡を取り、出版物の作成を進める重要な役割を担うようになった。

 

前島志保(まえしま・しほ)教授 10年東大大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。16年ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)大学院博士課程修了。Ph.D.(アジア学)。法政大学准教授、東大大学院総合文化研究科准教授などを経て21年より現職。

 

出口智之(でぐち・ともゆき)准教授 08 年東大大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。東海大学講師、同大准教授を経て18年より現職。

 

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