学術

2023年8月16日

始皇帝の時代を読み偶然の歴史をたどる【後編】

 

 今夏に入って公開された映画『キングダム 運命の炎』は集英社の人気漫画『キングダム』の実写映画第3弾となる。同作品は紀元前3世紀の中国古代、初めて中国を統一した秦の始皇帝の時代を、その始皇帝の目線から描く、新たな視点の作品である。実は今、学術分野においても始皇帝や彼を取りまく時代にメスが入っている。例えば、今年2月まで上野の森美術館で開催されていた展示「兵馬俑(へいばよう)と古代中国──秦漢文明の遺産──」には新たな知見をもたらした出土物などが多く展示されていた。学術の分野ではどのような進展があるのか、揺れる歴史像にどのように向き合えば良いのか。『キングダム』の実写映画第1作からその時代考証を手掛け兵馬俑展の監修なども行う、始皇帝や秦代史研究の大家、鶴間和幸(学習院大学名誉教授)に聞いた。後編では主に考古資料の活用と、歴史学の「今」に繋がる部分に迫る。始皇帝とは、秦代とは、歴史学の面白さとは──。(取材・高橋潤)

 

【前編はこちら】

 

https://www.todaishimbun.org/firstemperor_part1_20230815/

 

秦史研究のあれこれ最前線(考古資料)

 

──実地調査なども積極的に行っているとか

 

 始皇帝は占領した東方の地域を5度にわたって巡行し、実際に泰山に登り山東半島の海へ足を運びました。その巡行経路を実際に回りました。それらは当時を思考するときに大きな情報源となってくれます。始皇帝も史料を著した人々も実際にそうした景色を見ていたでしょう。文字史料は全くのフィクションではありません。それを書いた人たちや描かれている人たちはやはり現場を知っているのです。そのうえで歴史は書かれています。もしわれわれが現場の肌感覚をつかまなければ文字から読み取れることだけで判断しなくてはなりません。彼らと同じように知っていれば情報が豊富になります。史料の読み方も変わってきます。そこが大事なのです。文献からその時代をおさえ、それでは足りない部分をこうして補っていきます。過去の人々とできるだけ同じように行動してそのときの状況に近付くことが精確な考察につながるのです。

 

始皇帝巡行図。鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波書店、111 ペー ジ、134 ページ、161 ページより
始皇帝巡行図。鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波書店、111ペー ジ、134ページ、161ページより

 

──学際的な取り組みも増えています

 

 考古学や碑文学などからの知見も、自然科学的な分野からのものも非常に大切です。一つの分野の知識というのは限られていますし、おそらく当時のさまざまな科学や先端技術などが史料にも文物にも現れています。諸分野の専門家の意見を聞いて総合的に史料を活用していくと新しい発見があります。例えば東海大学との協力の下、地球外の人工衛星から始皇帝陵を撮影し、その地形を詳細に分析したことがあります。他にも中国で始皇帝陵の水銀量の科学的調査が行われました。『史記』の記述には、始皇帝陵には地下宮殿があり、そこには水銀で作られた海があった、とあります。この記述の信憑(ぴょう)性への検証となったわけです。また、発掘によって分かったことですが兵馬俑にはもともと色が付いていたのです。ではその顔料をどうやって付けたのか。科学的な知見が必要です。こうした横断的な取り組みや実地調査が視野を多様にしてくれます。文字史料以外のものを用いて史料の語る世界をさまざまに広げていくのです。

 

 

鶴間和幸・惠多谷雅弘(監修)『宇宙と地下からのメッセージ─秦始皇帝陵とその自然環境─』D-CODE、Kindle版税込み2200円。東海大学との協力の成果をまとめた
鶴間和幸・惠多谷雅弘(監修)『宇宙と地下からのメッセージ─秦始皇帝陵とその自然環境─』D-CODE、Kindle版税込み2200円。東海大学との協力の成果をまとめた

 

──では既存の文献に対してはどのような態度で向き合えば良いのでしょうか

 

 私は史料の文章の背後にある可能性を読み取ろうとしています。その記されている事象だけではなく、それを取り巻いた文脈についても考えます。史料の記録としては残らないような部分です。絶えず変化する環境の中で人々はその時代に生きている。その中でどう生きていくのかというところに多くの事柄が絡みます。例えば人間同士のネットワークですとか。そうした文献からは読み切れない当時の社会の部分を追っていきます。
 ある台湾の歴史学者が、こうした私の歴史分析の手法を「歴史の情境化」に焦点を当てていると評価してくれました。この歴史の「情境」とは過去の人物や事件がおかれた「情」況や環「境」のことです。「背景」という言葉ともまた少し違う。それらは史料の文字を読むだけでは見えてこないのですが、当時確かにあったのです。その見えない広がりを見出していくことが「歴史の情境」に迫ることです。
 歴史はその都度偶然の積み重ねで動いていきます。しかし結果から描いてしまうと必然性が出てくる。偶然性のより集めとは、ある意味では多くの選択肢がそのたびにあるということですよね。我々が行動するときのいろんな条件と言いますか。歴史学者としてはそうした多様な背景がその都度あったことを描いていくのが重要なのかなと思います。

 

 

兵馬俑1号坑の全景(写真は鶴間先生提供)
兵馬俑1号坑の全景(写真は鶴間先生提供)

 

 

今を生きる私たちにつながる歴史の偶然性

 

 

──歴史の偶然の部分とは

 

 今の時代を生きるわれわれもその事象が終わってしまえば必然の歴史として描きますが、目前の状況で選択をしていくときには先は見通せないはずです。今のウクライナに関する問題にしても、パンデミックに関する問題にしても、模索しながら進んできている。その繰り返しで世界は回っていきます。しかし 10年後、20年後になるとその際にあったさまざまな選択肢というのはおそらく忘れ去られてしまう。人間は忘れる生き物ですから。すると後から必然だけで描き出される。でもそれは歴史の本質的な展開ではないのです。始皇帝個人もさまざまに悩む中で動いてきましたが、後世の漢代の人たちから見ればある種の必然的な帰結であって、秦が中国を統一してその後すぐに崩壊したことは前提となって歴史が描かれます。しかし同時代の人からすればどういう方向に進むのか全く分からなかったわけで、その都度、時代の複雑な状況の中での葛藤があるのです。

 

──日本人が中国古代史を学ぶ意義とは

 

 歴史学を始めたときは、日本文化の源流を中国に求める思いがありましたが、岡倉天心の言論の影響を受けて変わりました。彼も初めはそう思っていたようですが実際に中国に行ったとき、中国と日本は全然違う、むしろ中国はヨーロッパに近いと感じたようです。多様な民族がいて、多様な地域がある。それは私も同感でした。日本文化の源流で日本に近いようで、実はかなり違う社会です。日本は中国を参考にして律令制国家などの枠組みをつくり社会を形成して来ましたが、今も昔も実際の社会には隔たりがあります。そうした共通点と相違点を学ぶことが日本の理解にもなるし、あるいはより広がってヨーロッパや世界の理解になるかもしれなません。源流探しというだけではなくて、もっと普遍的な人間の過去における生き方が見えてくるかなと。新しい時代を生きていく中でも中国古代史から学ぶことがあると思います。

 

──中国古代史など、歴史学に踏み入るには何が必要でしょうか

 

 歴史をやるなら史料を読めなくてはいけません。中国古代なら漢文史料です。何年歴史学をやっていても史料を読むことに終わりはありません。できるだけたくさんの文字を、史料を読んでいく。基礎的な力に加え直感力も必要です。培った感覚や史料への愛着などを総動員してあたらなければいけない。一字一句訳していくのも大変ですが、当時の時代背景も読み取っていかないと史料は読めません。その史料が何を伝えようとしているのか、いったい何を言おうとしているのかと総合的に向き合って読んでいきます。結構大変です(笑)。私にとってもいまだに読んでいて分からない部分があります。どうしてもこの部分が読めないと。読めないのだけれども、でも何日か挑戦します。そうするとふと読み方を思いついて、するりと読めたりします。そこに面白さがある。それが少しでも体験できたら史料を読むのはこんなにも面白いのだと分かるかと思います。それが文字を扱う歴史学の面白さですが、それにはやはり訓練する時間が必要ですよね。

 

──歴史学を志す学生へのメッセージをお願いします

 

 自分の関心を突き詰めることが大事です。先行研究も自分の関心がないと頭に入ってきません。何を知りたいのかを明確に持っていないとだめですね。でも、主体的興味があると面白い部分を発見できるかなと思います。若い世代の人々がこれからを生きていく中で過去の時代のどこに関心をもってどう読んでいくのかということを、私とはまた違った視点で見つけられるでしょう。

 

 

鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波書店、税込み946円
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波書店、税込み946円

 

 

 

鶴間先生顔写真

鶴間和幸(つるま・かずゆき)名誉教授(学習院大)1980 年東大大学院人文科学研究科(当時)博士課程単位取得退学。98 年博士(文学)。学習院大学文学部教授などを経て 21年より同名誉教授。秦代史、特に始皇帝を中心とした研究を行う。主要著書は『秦帝國の形成と地域』(汲古書院)、『人間・始皇帝』(岩波書店)。映画『キングダム』の時代考証や兵馬俑展の監修なども手がける

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