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2020年1月8日

【福島訪問記】④町≠人が住んでいる場所

 

 この記事は、工学部システム創成学科E&Eコースに通う三上晃良さん(工・3年)が事故から8年が経った福島第一原発・原発がある福島県双葉郡浪江町を訪れた際に見た現地の状況を伝えてもらう連載の第4回です。

(寄稿=システム創成学科E&Eコース 3年 三上晃良)


 原子力発電所を訪れる1日前、私たちは浪江町を訪れていた。私は一度、2018年に田植え体験のために、浪江町を訪れたことがあった。しかしその時には、水田と市長舎だけを訪問したため、浪江町の街中を実際に歩くのは初めてだった。浪江町は福島第一原子力発電所から北に10キロメートル行ったところにある町で、事故後全町避難が続いていた。2017年3月、町の中心である沿岸部の避難指示が解除されたことによって帰還が始まったが、現在の町の人口は震災前の1割にも満たない。そのため、浪江町では、私たちは数々の驚くような光景を目にした。

 

 事件は、浪江町駅に着いた瞬間に起きた。日曜日の夕方5時前に到着したのだが、浪江町駅前では、人の気配すらしなかった。深い森の中にいるかのようにシーンとしていて、ただ私たち4人の声だけが響く。浪江町の飲食店で夕食を取ることにしていたが、嫌な予感がしてきた。浪江町の飲食店地図を確認すると、日曜日の夜に開いている店は僅かに4件しかない。事前に「飲食店」は14軒あるという情報を得ていたため、油断をしていた。夜中でも空いているファミレスがある東京の生活に慣れ過ぎてしまったのかもしれない。開いている4件を確認すると、駅からある程度距離が離れている。タクシーも見当たらないので、とりあえず1番近くの店に向かって歩き始めた。

 

浪江駅前にて

 

 店まで歩いている最中、パトカーをよく見かけた。パトカーを見かけた回数の方が他の車を見かけた回数より多かった気さえするほどだ。日曜日の17時台だったからだろうか。それにしても、パトカーしか見かけないとは不気味である。「パトカーに載せてもらわない? どうせ暇でしょ彼らも」。そんな言葉が私たちの口を突くぐらい、パトカー側も意味のない行為を繰り返しているように見えた。パトカーを側目に近くの2軒の飲食店まで歩いたもののどちらも予約制の高級店で私たちが手を出せるお店ではなかった。

 

 そこで方針転換をし、これから泊まる「憩いの宿 浪江」までの道の途中に存在する、と地図上では示されているコンビニを目指すことにした。しかし、嫌な予感は的中。コンビニは、既に5年以上前に潰れたかのような状況だった。結局、駅の近く1km圏内に日曜の夜ご飯にありつける場所は、一つもなかった。

 

 結局、この日の宿「憩いの村 浪江」に行ってから夕ご飯のことは考えることになった。と言っても、「憩いの村」では、ご飯は提供されていない。不安の中宿まで歩く途中、農道から山への入り口に設置してある線量計が見えた。「0.38μSv/h」。これは、国が定めている基準0.23μSv/hより高い。やはり除染の進んだ居住地域は線量が低下しているが、周辺環境には未だに高線量地域が存在している。そのことを改めて実感した。放射線の基準値は、影響があると確認された値からかなり低い値に設定されている、と学科の授業で学んだ。この山で長時間滞在したとしても、直ちに健康に悪影響は出ないはずである。一方で、ただ基準値の話だけを知らされていれば、子供を持つ親は、勝手に自身の子供が山に入って高線量を浴びることに不安になるのかもしれない。

 

 このような風景を見て、考えながら歩いていると、「憩いの村 浪江」に到着した。浪江町の避難指示解除とともに、リニューアルされたため、とても綺麗な施設であったが、やはり食事はついていない。宿の方に事情を説明すると、親切にも近くのイオン系列のスーパーまで車で連れて行ってくれることになった。

 

福島第一原発にいく前に宿泊した施設「憩いの村 浪江」

 

 スーパーまで車を運転してくれたのは丁度私達と同い年の21歳の男性。同年代ということで話が弾んだ。「多分、僕が今浪江町で一番若いと思いますよ。こうやって今日同年代と会話できるのも嬉しいです」と彼は話した。市役所に確認したわけではないが、そういう実感があるということなのか。21歳が若手となると、数十年後には高齢者だけになってしまう。彼によると、私たちが気になっていたパトカーは、いつも走っているらしく、彼が夜に一人で歩いているとパトカーの警察官から職務質問を受けることもあるそうだ。若者が極端に少ないので、若者が部外者の可能性が高くなっているということだ。私たち若者4人が日曜の午後5時に目的を見失いながら歩き回っている光景は、強盗団が標的を探して歩いているように警察には見えたのかもしれない。

 

 彼は原発事故後避難をし、その後東京の専門学校に進学した後、就職を機に浪江町に戻ってきたらしい。私たちが探すのに苦労した飲食店、スーパーの事情も聞いてみた。「今から行くイオンスーパーができたから最近は苦労しないですね。でも、できる前はいわきとか、場合によっては、土日に遊びがてら仙台まで行った時に買ってました」とのことだった。

 

憩いの村浪江にて

 

 浪江町は、避難指示解除から2年と半年が経ってはいたが、依然として「人が集まって住んでいる場所」であり、持続可能な有機的な繋がりがある「町」の姿からは遠い姿にあると感じた。特に、放射線量は未だに高い水準にあり、人々の不安になっていてもしょうがないと感じた。また先日、本郷キャンパスで行われたシンポジウムで、未だに全町民避難が続いている双葉町の町長伊藤史朗氏は、「原発事故から8年半が経ち、他に生活基盤ができているため、もう町には帰り辛いし、そもそも連絡先がわからない人もいる。」と語っていた。原子力発電所の事故が、町にそして人々の生活に大きな影響を与えたことを深く認識しないといけないと感じた。次回では、富岡町出身者がなぜ原発後苦悩したのかを伝えたい。

 

【連載 福島訪問記】

【福島訪問記】①福島第一原発事故後の現状〜廃炉と町の復興〜

【福島訪問記】②8年越しの福島〜福島の現在と原発の未来〜

【福島訪問記】③処理水と人の心

【福島訪問記】⑤変化と適応と人の心 時代に合ったエネルギーの選択へ

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