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2021年4月8日

【対談で考える東日本大震災】10年目の「物語り」と「ケア」

 

 震災から10年となる2021年、香港公開大学主催の市民向けシンポジウム「大震災と復興の行方」が開催された。東北大で実施予定だったが、新型コロナウイルス感染症の影響でオンラインでの実施となった。3月6日、7日の二日間にわたる講演には、東大からも哲学を専門とする先生方が登壇し、登壇者間の活発な質疑応答なども行われた。ここでは、6日に東京大学総合文化研究科張政遠准教授をモデレーターとして行われた、野家啓一東北大学名誉教授(現在、立命館大学客員教授)と、川本隆史東京大学名誉教授(現在、国際基督教大学特任教授)の対談「10年目の『物語り』と『ケア』」の内容を一部抜粋して紹介する。

(取材・松崎文香)

 

 

 

仙台にいた震災当時を振り返る

 

野家啓一 実は私は東日本大震災の当事者、被災者の一人です。当時住んでいた自宅は、津波の被害はなかったものの全壊し「り災証明書」が交付されました。本棚が崩れ、ガラスなども飛散して、とても靴なしで歩ける状態ではなかったので、妻の実家に身を寄せながら大学へ通ったり自宅の片付けを行ったりしておりました。

 

 そうした時に東京に住む友人から、震災後初めての郵便を受け取りました。「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ」良寛が三条の大地震後に、友人へ送った書簡の引用だけが書いてある葉書でした。受け取った当初は「家の中が無茶苦茶になっている時に、無神経な男だ」と友人を恨めしく思ったのですが、この文面を何度も読み返しているうちに「これ(震災)を受け入れる他ない」という「あきらめ(明らかに見る)」の気持ちにさせられました。

 

 梅原猛さんは「フクシマ」と「ヒロシマ」は二度にわたる文明災、つまり核文明によって引き起こされた災害・災厄だといいます。東京電力の福島第一原発はいまだに廃炉の見通しさえ立っておらず、汚染水をためておくタンクがそろそろ満タンになりそうだということが、今大きな問題になっています。東日本大震災はこうした原子力発電所の事故を伴ったことで、世界史に残るような災害になったと思います。

 

 今日は10年前の出来事と、この10年の歩みがどういったものであったか、またこれからどういった方向に歩いてゆけば良いのかを川本さんと共に検討し、私自身の「記憶のケア」もしていければと思います。

 

体験と経験の違い、記憶と忘却の対立

 

川本隆史 まずは野家さんの「物語り」論の新境地を聴かせてください。2015年の論集『想起の方則』(発行=せんだいメディアテーク)に寄せられたエッセイ「記憶と忘却のはざまで」では、「忘却の作法」という意味深長なフレーズを持ち出されていましたが……。

 

野家 2012年に開催された「大震災と価値の創生」をテーマにしたシンポジウムでは、記憶を物語りとして蓄積する方法に重点を置いて話をしました。

 

 10年前、私たちは震災というものを直接に体験したわけです。ここで経験(Erfahrung)と体験(Erlebnis)というものを区別したいと思います。英語には訳しづらいドイツ語なのですが、哲学の世界では経験(Erfahrung)をexperience、体験(Erlebnis)の方をlived experienceと言ったりします。

 

 体験は一人称で語られるような個人的なものであって、怖かったという自分の体験を、そのまま他人に伝えることはできません。だからこそ体験はなまなましく、かけがえのないものであるのですが、そのままでは一人称の閉じた囲いの中で終わってしまいます。それを他人に伝えて、コミュニケーションするためには「言葉」が必要です。言葉にして伝えると、言葉の持つ普遍性・一般性により、体験はその人だけのものではなくなりますが、同時に他人と共有することができる経験になるのです。ですから私は10年前、「物語る」という行為を重視したわけです。

 

 記憶を物語りとして蓄積することが重要である一方で、忘却することも個人の心のケアにとっては大事だということを、この10年で学びました。精神科医であり、震災後は被災者の心のケアに携わってきた桑山紀彦先生が「心のケアが必要な人にとって、記憶を紡ぎ出しそれを物語り化しどういう形でどこにしまう、つまり奉納するか、という一連の作業が必要です。心の傷をケアするのは、薬の処方を考えるのではなく患者さんたちの物語を一緒に作っていく作業だということを改めて学びました」とおっしゃっていました。阪神淡路大震災で、自らが被災しながらも救援活動に従事した精神科医の中井久夫先生が、「記憶の成仏」と表現したのもこれと同じことだと思います。震災がトラウマになってしまい、いまだに津波の映像を見ることができないという方々が私の周りにもいらっしゃいます。そういう場合には上手に忘れて記憶を成仏させる、「忘却の作法」が必要になってくるわけです。

 

 震災で被害を受けた建物を震災遺構として保存するのか、解体するのかという問題があります。震災の記憶を守り次世代に伝えていくために、自治体として保存すべきだという声もあれば、そこで亡くなった家族を思い出すから一刻も早く撤去してほしいという声もあります。震災の記憶を整理し継承していくには、公共的なレベルでの「記憶の作法」と個人的なレベルでの「忘却の作法」がうまくマッチすることが、震災から10年経過した今、必要なのではないかと思います。

 

川本 私の郷里・広島市でも、原爆ドームや陸軍被服支廠などの被爆建物を保存するか解体するかをめぐる論議が続いてきました。「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の活動を始めた友人がいますが、悲惨な光景を陶版画にして現場に残そうとする方針に対して、辛い記憶を思い出させるのはいかがなものかとの慎重論が出されたそうです。南三陸町の防災庁舎の解体vs保存の論争とも重なるところがありましょう。

 

「記憶のケア」の二つの手立て――脱集計化と脱中心化

 

川本 私自身も大震災を1つの契機としながら、「記憶のケア」を2つの手立てでもって推し進めようとしてきました。《被害や苦しみの脱集計化》(ひと括りにされた量や概念を「ほぐし、ばらす」こと)が1つ目で、《当事者や現場の脱中心化》(当事者や現場を中心に祭り上げて終わりにするのでなく、そこから「ずらし、ひろげる」こと)が2つ目です。

 

 広島出身の漫画家・こうの史代さんの掌編「外側の人へ」が、「脱中心化」のお手本を示してくれています――「心を澄ましておこう。「内側」から囁かれる何かを、「外側」の人間として、ひとかけらずつ受け取ってゆこう。/そしてもっと「外側」の誰かへ、「内側」の人間として伝えようと思う」と(岩波書店編集部編『3.11を心に刻んで』、岩波書店、2012年所収)。

 

不一致を議論の土台とする「実りある不一致」が求められる

 

川本 野家さんは、震災と原発事故を受けとめた日本学術会議のシンポジウムにおいて「実りある不一致」という挑発的な問題提起をされていましたね(『学術の動向』2012年5月号)。

 

野家 これは福島原発事故後の原発推進派と反対派の対立を念頭においたものです。震災後は住居などの高台移転や、防波堤の高さなどについても様々な議論が沸騰し、そうした意見の不一致が不一致のまま残され、様々な問題を引き起こしました。満場一致を無理やりに求めるのではなく、不一致を今後の議論の土台としてゆく“fruitful disagreement”が求められていると思います。

 

 先ほどのお話にあった「内側」と「外側」についても、その区別をなくすのではなく、その間を壁で隔てるのでもなく、お互いにコミュニケーションが可能な状態にしておくことが「実りある不一致」にもつながるのではないでしょうか。

 

 アメリカの比較文学者エドワード・サイードが『人文学と批評の使命』のなかで、人文学者はinsiderであり同時にoutsiderであることが大事だと記していました。人文知の研究、例えば日本語の研究をするには日本語の中にいなければならない一方で、それを外から見る目を養う必要があるということです。また日本では谷川雁という詩人が『工作者宣言』という論集の中で、「大衆に向っては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者」という、両義性を持った立場に自身を位置付けていました。(付け加えておけば、このあとに有名な「連帯を求めて孤立を恐れない」というフレーズが出てきます)。これらもこうの史代さんの「内側」と「外側」の話に通じる点があるのではないかと思います。

 

モデレータ・張政遠准教授からのコメント

 

 大震災から1年目を迎えようとしていた2012年の3月、「大震災と価値の創生」という市民シンポジウムで発表するために、留学していた東北大学を再訪した。3月11日には学会の発表者たちで女川、石巻そして仙台への被災地ツアーに参加した。リアス式海岸でできた女川港を襲った津波は20メートル以上もあり、甚大な被害をもたらしたが、実は6メートル位の津波でも、想像を絶するほどのダメージを平野部に与えたのである。

 

 仙台市若林区に「浪分神社」という所があり、慶長地震(1611年)の際に津波が止まった所に建てられたと言われている。海岸線から5キロも離れているにもかかわらず、大津波の襲来の可能性があったのである。不幸中の幸い、東日本大震災の津波は仙台東部道路で止められたので、被害を免れた。この神社に参拝したあと、「巡礼」(pilgrimage)という言葉を西ワシントン大学の遊佐道子先生がおっしゃった。被災地を巡礼することは、浪分神社のような忘れられた「記憶装置」を巡ることによって、記憶を蘇らせることであると私は考えている。

 

 大震災から10年目を迎えようとするこの3月に「大震災と復興の行方」という市民シンポジウムが開催された。コロナ禍のなか、今回はオンライン開催のため「被災地巡礼」ができなかったが、天災と人禍を忘れないために、自分の住んでいる街の「記憶装置」を巡り、忘れられた記憶を蘇らせることができるはずである。

 


【記事修正】2021年4月10日0時57分 

川本名誉教授の発言部分の内容を修正しました。

野家名誉教授の発言部分の表現を一部修正しました。

「モデレータ・張政遠准教授からのコメント」を追記しました。

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