学術

2023年5月24日

少子高齢化の日本には人口学が必要だ 稲葉寿教授退職記念インタビュー

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 日本の人口は、現状のまま推移すれば今世紀末までに現在の半分以下まで減少すると予想されている。一方、世界の人口は2022年に80億人に達した。人口減少や人口爆発に伴う社会問題・環境問題を学問的に考えるためにはどのような研究が必要だろうか?

 人口の変動を数理モデルで研究する学問が「数理人口学」だ。実は、人口学と新型コロナウイルス感染症などの流行予測を考える感染症数理モデルは,個体群ダイナミクスとして共通のルーツをもっている。今回は人口と感染症の数学を研究し、22年度をもって退職した稲葉寿教授(東大大学院数理科学研究科・22年度当時)に、コロナ禍に至るまでの感染症数理モデルの発展や日本の人口学の未来について聞いた。(取材・上田朔)

 

 

「学問だけを世間と関係なくやっていていいのだろうか…」

 

━━学生時代にはどのような事柄に関心を持っていましたか

 

 最初は理論物理学を志して京都大学に入学しました。当時は湯川秀樹先生もご存命でしたし、京大理学部の入学者の9割くらいは物理志望だったのではないでしょうか。しかし、いろいろ勉強しているうちに自分が本当に好きなのは数学だと気付きました。学部3回生の終わりまでに卒業に必要な単位は取っていたのですが、そこから迷走が始まります。

 

 私は1976年入学ですので「全共闘世代」より10歳くらい若いのですが、入学してみると京大ではまだ大学紛争が続いていました。私の世代はまだ60年代末の学生運動から精神的な影響を受けていて、私自身も高校生の頃から「学問だけを社会のあり方と関係なくやっていていいのだろうか…」と疑問を持っていました。そうした背景があって4回生の時にはすっかりマルクス主義的な社会思想にインスパイアされ、哲学の本を読んだり社会経済の本を読んだりしていました。どんどん数学からズレていってしまったのです。

 

 数学の分野での学問的な基盤と、社会への関心の両方を活かせるような生き方をしたかったのですが、どうすればよいか分からないうちに2年留年してしまいました。民間企業に就職してお金儲けするのは当時の価値観で言えば「資本主義ほう助罪」ですので、まずいわけです(笑)。かといって大学院に進学して狭い専門性に生きる気も起きず、ナイーブな考え方かもしれませんが「公務員になればニュートラルではないか」と思ったのです。最終的には数学科出身者を募集していた人口問題研究所(厚生省・当時)の研究員になりました。

 

━━人口問題研究所に在籍していた期間、日本ではどのような人口問題が起きていましたか

 

 私が就職した82年の時点で日本の合計特殊出生率(TFR)は人口を定常状態に保つために必要な値を下回っていましたが、現在のように人口が持続的に減少し続けるとは思われていませんでした。TFRは出産タイミングが遅くなると一時的に下がる性質があるので、当時のTFRの減少も過渡的なものだと考えていました。そもそも、日本であれ国連であれ、人口はやがて一定の規模に収束するという仮定のもとで人口予測を行うのが当時の人口学の常識だったのです。しかし、90年代になると少子化が進み、もはや日本の人口が自然に回復するとは期待できない状態に陥りました。人口がやがて一定になるという常識も捨てざるを得なくなります。

 

 80年代に起きた出生率の低下は結婚する確率の低下によるものでした。日本は欧州と異なり婚外子の割合が非常に低いため、出生数の大部分は法律的な婚姻の数と夫婦あたりの子供の人数の積で決まります。このうち、夫婦当たりの子供の数は80年代も依然として平均2人程度を維持していました。実際にこの期間のTFRの変動は結婚確率の減少で説明できることが数理モデルによって確認されました。

 

━━感染症の数理モデルとの出会いは

 

 オランダに留学していた時のことでした。今も当時も日本には人口学のPh.D.コースが大学に存在しないので人口学を学ぶには留学するしかありませんが、私は米国流の人口学より、より数学的、数理生物学的な構造化個体群ダイナミクスを学ぶために、89年からライデン大学にてディークマン先生に師事しました。最初から感染症数理モデルを目当てにして留学したわけではなかったのですが、感染症の数理モデルに人口の年齢構造を取り入れるという論文をディークマンに紹介され、この分野に興味を持つようになりました。

 

オランダ留学時の写真
オランダ留学中の稲葉教授(左)とディークマン教授(右)(写真は稲葉教授提供)

 

 同時にこの頃、エイズの流行が世界的な大問題となっていました。欧米においては、エイズパンデミックを契機として感染症数理モデルが脚光を浴びるようになります。エイズでは感染してから症状が出るまでに10年程度かかるため、症状が出た感染者数や抗体検査によって感染が分かった感染者数は、全体の感染者数のごく一部でしかありません。隠れた感染者数をどうすれば計算できるか、という数学・統計学の問題が生じました。それまで感染症と無関係の研究をしていた物理学者などもこの分野に参入し、感染症の数理モデルは大きく発展したのです。

 

 私もエイズに対する問題意識を持って帰国したのですが、当時の日本では感染症数理モデルの研究は無きに等しい状態でした。私は統計解析ができない方なので、数理モデルを使ってエイズを発症した人口と未確認の感染者の人口の関係について調べていたのですが、厚生省の研究班でそれをしゃべっても反応なしでした。コロナ禍を通じて有名になった「基本再生産数R0」といった概念も知られていませんでした。幸い日本では欧米ほどエイズが広がりませんでしたが、これは個人の行動の違いによるものだと思われます。最近まで感染者数はじわじわ増えていたので、制御できていたという印象はあまりありません。

 

人口学の研究教育体制確立を

 

━━東大に着任してからの研究は

 

 感染症の研究がメインになっていきました。よく覚えているのは基本再生産数に関する理論研究です。最も単純な感染症の数理モデルは、全人口をS(Susceptible :感染症に対する感受性保持者の人口)、I (Infected : 感染者の人口)、R (Recovered : 感染後治癒した免疫保持者の人口)という部分に分ける「SIRモデル」です(図)。このモデルによれば「基本再生産数R0」という量が1を超えれば感染が拡大し、1を下回れば自然に収束するということが証明できます。

 

 

SIRモデルの概念図
最も単純なSIRモデルの概念図。全ての人口を感染症に対する感受性保持者(Susceptible)、感染者(Infected)、免疫保持者(Removed)の部分に分け、それぞれの個体群の人口の時間変動をモデル化する

 

 基本再生産数R0の意味は、言葉で説明すると「人口のほとんどがまだ感染していないときに、1人の感染者が感染させる2次感染者の平均数」となります。しかし、現実の感染症では人口の年齢分布、性差、感染後の潜伏期間などさまざまな要素をモデルに取り入れる必要があります。そのような複雑なモデルに対して基本再生産数をどのように計算するべきか、という問題が議論されてきました。

 

 私が留学していた頃にディークマンらが発表した論文において、個々のモデルによらない普遍的な基本再生産数の定義が与えられました。その後に問題になったのは「時間的に一定でない環境」を取り入れた感染症モデルです。例えば冬に流行する季節性インフルエンザのように、環境が周期的に変動する場合についてはフランスの数学者バカエルの研究がありました。私はさらに、周期的とは限らない時間変動が起きるモデルに対する基本再生産数の定義を考案し、感染の拡大・収束を判定する閾値として使えることを示しました。

 

 ただし、現在でも感染症数理モデルは圧倒的に未熟だと思います。例えばSIRモデルでは、新規感染者が発生するスピードがSの人口とIの人口の積に比例すると考えます。これは、全ての人口が一様に接触すると仮定しているという意味なのですが、現実世界の人と人の接触はもっとはるかに複雑なネットワークを通じて起きているはずです。狭い地域の中の人口を取り扱う場合ならSIRモデルによるシミュレーションもある程度の目安になるのですが、日本全体の流行予測にSIRモデルを使っても全然当たりませんし、一地方自治体の人口でも当たらないでしょう。例えば、コロナ禍の初期には大規模なPCR検査を行うべきかが議論になったため、検査と隔離によって感染を抑え込めるのかどうかを研究しました。私たちのモデルでは毎週検査を行えば流行を制御できると予測されましたが、この結果がどれだけ大きなサイズの人口に当てはめられるのかは難しい問題です。

 

 新型コロナウイルスの場合、個々人の特性が流行の動向を左右しました。ソーシャルディスタンスを取るかどうかやマスクを着けるかどうかといった特性が人によって異なる上に、これらの特性は時期によっても変化していました。このようにモデル化が難しい要因が残っているので定量的な流行予測はまだ難しいですが、こういう政策を実行すればこんな結果になるだろう、という定性的シナリオを絞り込むくらいのことはできているのではないでしょうか。

 

━━東大に望むことは

 

 東大を含め、国立大学は人口学や感染症数理モデルの研究教育体制を作るべきです。コロナは深刻な問題ですが、日本の場合は少子高齢化がさらに深刻です。それにも関わらず、現在でも人口学の学位を取るには留学するしかないという状況になっているのは不思議としか言いようがありません。

 

 感染症に関して言えば、私は理論研究しか行ってきませんでしたが、欧米では感染症数理モデルの理論と実践を行える研究者がたくさんいます。日本では残念ながら、コロナ禍が発生したときにそのような人材は西浦博教授(京都大学)のチームくらいしかいませんでした。本当は、日本の各拠点大学がそれぞれシミュレーションを行い、お互いの結果を比較して議論できる状態になっているべきだったと思います。

 

 東大生にも、チャンスがあれば是非人口学や感染症数理モデルを学んでほしいと思います。現在の予測では、21世紀末には日本の人口は半減していて、人口の4割は高齢者です。そのような空前の人口減少社会でどうやって社会経済を維持していくのかを考えるには、人口学が必要なのです。

 

稲葉教授 顔写真
稲葉寿(いなば・ひさし)東京学芸大学特任教授 82年京都大学理学部卒。89年ライデン大学Ph.D.取得。東大大学院数理科学研究科助教授などを経て、14年から22年度まで東大大学院数理科学研究科教授

 

 

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