インタビュー

2015年7月21日

「夢見たことは必ず実現する。だから、何を夢見るのかが重要なのだ」ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんインタビュー

本日、東京大学でダムタイプ『S/N』の上映会が催される。予約開始後、一日を待たずに175席全席がソールド・アウトした本上映会。初演後20年が経過した今なお、人を惹きつけるこの作品の魅力の源泉とは一体なんなのか。『S/N』出演者でもあり、上映会のゲストでもあるブブ・ド・ラ・マドレーヌさんにメールインタビューを行った。 ブブさん
--当時のダムタイプの活動理念とは、どういったものだったのでしょうか?

理念といったものがメンバー全員に共有されていたかどうかはわかりません。しかも私がダムタイプのメンバーとして活動したのは、1991年の終わり頃から96年の4月までです。30年を越えるダムタイプの長い歴史のそれはごく一時期です。次の質問でお答えした事情により、私はダムタイプに参加する直前まで主婦でした。その私がダムタイプに参加した当初に強く感じた事は2点ありました。ひとつは「批評的精神」のレッスンのようなものが日常的にあったこと。メンバー互いに対してもそうですし、他のアーティストや社会に対してどのように観察して批評的に考えるか。それがとても新鮮でした。それは単なる「意地悪」と紙一重なのですが、全く異なるものです。もうひとつはメンバーの誰もがダムタイプという集団から自立していることが求められるということ。集団性のようなものへの依存は表現にとってマイナスだという警戒がヒリヒリと感じられました。私は他のカンパニーに所属したことがありませんが、この2つは集団で作品を作ったり、プロジェクトを遂行する際には重要なことであると今も思います。

 

--ブブさんにとってdumb typeとはどういった場でしたか?

ダムタイプは、当時の京都市立芸術大学の学生によって1984年に結成されました。私は大学入学時から2回生の終わりまでその前身である演劇サークルのメンバーでしたが、3回生の時、すなわちダムタイプの結成の1年前に恋愛に目がくらみ(笑)サークルの活動から抜けました。卒業後、私はすぐに結婚したのですが、その夫がダムタイプに嫉妬したので、私は夫に操を誓って結婚している間はダムタイプとの交流を絶っていました。良妻だったのです(笑)。1992年に離婚して、同時に自分が本当にやりたかった事は何だったのかを考え直し、それでダムタイプに戻る決心をしました。ダムタイプでの活動は、まるで自分が脱皮したように楽しかった。最初は経験も無いので見習いとしてでしたが、ヨーロッパツアーにも同行させてもらいました。その頃、ダムタイプの創設メンバーでもあり、私の大学での同級生でもあった古橋悌二はドラァグクイーンとして「ダイアモンドナイト」というワンナイトクラブをオーガナイズもしていて、私はそこでドラァグクイーンとして「生まれ直し」ました。ダムタイプとダイアモンドナイトで、私は自分の体の使い方と、観客との関係の作り方を学んでいきました。それが私の「学校」だったんですね。

 

--ブブさんが『S/N』に込めたお思いを教えてください。

『S/N』は舞台作品としてはとても特殊な状況の下で制作・公演された作品だと思います。それは、メンバーの1人である古橋が当時の医療では余命3年程度だと予測され、その人がこの作品に自分のすべてを注ぎ込もうとしていて、しかしその人は他のメンバーが自分に単に追従や、ましてや同情するようなことはとても嫌がりました。ですからメンバーは全員、とてつもない、でも非常に単純な「死」という事実に、自分でどのように向き合うのかを日々刻々迫られました。『S/N』はそういったメンバーの日々のドキュメントでもあったなと今は思います。そのドキュメントを舞台作品として編集したのは古橋自身なのですが。 私はこの作品の制作を通じて、他者ということを学んだのだと思います。とても単純に、目の前の友人に死が迫っていて、どうすることも出来ない。しかしそこで私が感じる絶望すら、エゴイスティックなことだと思いました。だって私がただ絶望していても、何も事態は変わらないからです。 「特殊な状況」と書きましたが、でもそれはよく考えたら、実は私たち生きている者全員が日常で直面していることです。順序はどうであれ、全員が「いつか」は必ず死ぬのですから。その「いつか」、そして「どのように」死ぬのかについて、私たちはとんでもなく鈍感であったのだと気付きました。絶望を越えてこそ起こせる行動があること、そして自分がいかにすぐに鈍感に戻ってしまうかに警戒すること。そのようなことを考えて、当時は制作と公演を続けていたように思います。

 

--『S/N』の初演から20年経って、当時と現代とで社会における作品の意義は変化したとお考えですか。またどう変化したと思われますか。

 『S/N』はダムタイプの他の作品とは異なり、古橋がメンバーに対して最初に「今回は僕に仕切らせて」と言った唯一の作品だと私は理解しています。それまでの「演出家という役割を1人に固定しない」という方法とは異なりました。『S/N』の演出家は古橋でした。彼が作品に託そうとした意義を、今でも私は完全に理解しているとは思いません。また『S/N』は、直接携わった人だけでも十数人、間接的にかかわった人は何十人にものぼります。そのすべての人が、当時も今もそれぞれの意義を感じているでしょう。 その上で私が言えるのは、『S/N』は当時の時代背景に強く影響を受けて作られ発表されましたが、そこに込められたメッセージは時代や地域を越えるものだと思っています。少なくとも、それを目指していました。それは、他者との関係性というものは血と血を交換するようなものであり、愛と名付けられたり強奪や暴力と名付けられたりもするものだということ。そして私達の世界は不可逆的に冷笑や無関心や傍観といった態度に浸食されていて、それに抗おうとする個々人の発するノイズを可視化しようとしたのがこの作品だと私は思います。ですから、それを目撃した観客との間に、初めてその意義というものが発生するようなものだと思います。つまり、その時代時代で観客がどのように反応するのかを含めて『S/N』と名付けようとしていたのかもしれません。 そういう意味では、作品の意義といったものがもしあるとすれば、私はそれは変わっていないと思います。ただ、受け取る観客の経験や切実さは、特に日本においては変化したと思います。つまり、生命や人間関係の危機が『S/N』発表当時はエイズやマイノリティの問題だと受け取られることが多かったのですが、それは単なるひとつの疫病の流行の問題や、マイノリティの問題にとどまらない危機だという切実さがより共有されるようになってきていると思います。

 

--上映会に来る学生たちにメッセージがあれば、お願いします。

まず、20年も前の作品に関心を持っていただいたことに感謝します。ダムタイプの中心的なメンバーは大学のサークルで出会い、そこで最初の重要な数年間を過ごしました。この出会いは幸運でした。授業をさぼって一緒に映画や演劇を観に行き、学食や下宿で果てしなくとりとめのない話をしました。学生課との攻防で大学内に基地を増やし、24時間大学で作業をしました。自分たちに必要な能力を持っている学生を他の大学から誘い出し、必要な基地を大学の外に確保しようといつも虎視眈々でした。これらのことは、芸術という分野に限らず大学生が実行できる特権でもあります。私達が「同志」と認識するのは、自分と同種の「貪欲さ」を持っている人たちでした。その頃に抱いた世界への憧れや理不尽さへの怒りは今も私自身の基本となっています。憧れと怒りはとても強い感情です。「夢見たことは必ず実現する。だから、何を夢見るのかが重要なのだ。」というのは、私が30歳の頃に確信したことですが、今も自分自身に言い聞かせているこのフレーズを、みなさんに贈りたいと思います。

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(文責 近藤多聞)

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