COLUMN 2019年5月13日

「令和」をめぐる考察② 歴史の審判を待つ

 「令和」という元号は、史上初めて、日本の古典が出典となった。今回の元号の制定過程や、制定者の意図については、日本史の観点ではどのように考えられるのか。近世朝廷史を専門とする村和明准教授(人文社会系研究科)に読み解いてもらった。(寄稿)

 元号が「令和」に改まった。正式に発表された典拠は『万葉集』であり、史上はじめて日本列島で作られた書物から選ぶという、従来の慣例を変更する大転換がなされた。

 

 歴史学の視点からは、新元号の制定における手続き、実質的な決定過程、そこに働いた力学と理念、新元号が与える印象・効果がいかに予想され、実際どうであったか、そこで現在と過去との関係がいかに議論されたのか、などが問題である。しかし現時点では発表・報道されている限られた情報しか材料がない。本コラムでは、とくにこの元号の出典選定がもつ意図について、あれこれと想像をめぐらせてみる、ということにしたい。

 

 典拠となった個所は、日本のうたではなく、漢文で付けられた歌会の序文である。この序文は、東京大学新聞で齋藤希史教授(人文社会系研究科)が詳しく説かれているように、書道史の頂点として名高い王羲之の「蘭亭序」を、さらには張衡の「帰田賦」を、前提として踏まえている。前者は『古文真宝』、後者は『文選』という、日本でも古くから愛された古典的なアンソロジーに入っている。とくに『文選』であれば、なじみぶかい元禄・慶応をはじめ江戸時代だけでも六つの元号の典拠となっており、従来通りの至極ありふれた出典ということになるのだが、『文選』でなく『万葉集』を典拠として発表したのだから、中国古典を典拠としない、という表向きのメッセージは明瞭である。もともと古代に年号を独自に定めたこと自体が、中国皇帝の時間支配に服さないという当時の意思表明であり、中国の古典に長く依拠してきたのは、西欧におけるギリシャ・ローマの古典のように、普遍的な価値の源泉と理解してきたためという面が大きいと思うが、それを一見否定する構えをとったわけである。

 

慶長年間(1596~1615)の『文選』。右ページ中ほどに「帰田賦」の文字が見える
(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)

 

 一方、万葉集のなかから、あえてこうした部分を選んだところから、裏側の意図を様々に想像すること、仮説を立ててみることができる。見聞きしたもの、思いついたものなどを、さしあたり可能性の高低はわきへ置いて列挙してみよう。

 

 まず、従来のきわめて長い伝統を完全に廃棄することには踏み切れず、ある意味では従来通りの古典に(も)依拠したと説明できるように配慮がなされた、という考え方が出ている。ついで、日本は常に外国の文明・文化の摂取・消化に絶えず努力してきた、という歴史観を改めて打ち出した、という見方もあろう。典拠となった個所は天平2(730)年で、聖武天皇らが国際化に非常に尽力した時代とのイメージが、正倉院の文物や井上靖『天平の甍』などによって広く定着していると思われ、特に外国との窓口であった太宰府が舞台であることからも、こうした想像が可能である。逆に、文字自体が大陸由来なのであるから、列島の文献をさかのぼっていけば、古いほどに大陸の影響が濃いのは自明であり、単に列島で作られた古い書物にこだわっただけ、とも考えられよう。

 

 「日本の古典」という観点から考えてみると、『万葉集』はたびたび称揚された時代があるものの、『古今集』や『源氏物語』と比べると、絶えることなく広く愛好されてきた、とは理解されていないのではないか。「日本の伝統」の中核としてより古い時代を選びとる立場が、また記紀でないところから、政治性を前面に出さない姿勢が感じ取れる。

 

 また「令」という字を、史上はじめて用いたのであるから、その採用には強い意図が働いているとみるのも説得力があろう。じつは改元とこの字のかかわりは深く、干支が甲子にあたる年を「革令」といい、大変動が起こりがちと考えて改元するという習慣が十世紀からあり、幕末まで長く続いていた。これを念頭に、変革の意を込めているという考え方があろう(ちなみに今年は己亥である)。また先例をさがすと、幕末に「令徳」という元号案があり、徳川家に命令する意として幕府に忌避されたという逸話がすぐ想起されるから、この字の意図を勘ぐる立場が出てくるのも自然であろう。典拠の文脈では「よい」「めでたい」くらいの意味であるものの、令嬢・令息・令名のような用例は多くの日本語話者にとってほぼ死語になりつつあると思われるが、選定者周辺の認識はどのようであったか。

 

 さて、あまりに取りとめもなく列挙しすぎて、読者の皆さまはうんざりされたかもしれない。ほかにも様々な意見が、メディア上に氾濫している。これらのうちどれが、元号を選定した者、発案した者、候補を絞った者の意図に近いのだろうか。

 

 学問のオーソドックスな方法として、まずこうした仮説を多様に立てたうえで、信頼できる根拠を十分に集めて検討し、可能性を絞り込んでゆきたいのだが、現在進行中のことすべてと同様に、いま発表されている情報はあまりにも部分的である。制定に携わった機関や人々の関係文書が長く保存され、いつか広く公開に供されることが、非常に重要である。それに基づいて、何が起こっていたのかが多角的に検討され、明らかにされることが望まれる。

 

 さて、この元号が広く用いられること、また元号・天皇や『万葉集』、日本の歴史が多くの人々の意識にのぼったことで、どのような効果があるのだろうか? この点は、この元号を用いる書類に触れながら生きてゆく、一人ひとりの課題となってゆくであろう。

 

村和明准教授(むら・かずあき)(人文社会系研究科)
 2010年人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。三井文庫主任研究員などを経て、2018年より現職。

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