学術

2021年10月6日

【論説空間】感染症と科学:科学哲学への期待

 今や新型コロナウイルスに関する情報は我々の生活を大きく左右している。目に見えない未知のウイルスについて我々は科学者など専門家を介してしか知ることができない。ますます役割が大きくなっている科学、科学者に求められることとはどのようなことだろうか。我々の行動指針となり、我々を救うのは科学なのだろうか。生物学が専門で、科学哲学も扱っている佐藤直樹名誉教授による論考だ。(寄稿)

 

「科学的」な態度とは

 

 感染症が過去の問題とされたのは20世紀末、天然痘の撲滅が象徴的な出来事だった。にもかかわらず、2002年のSARS流行をはじめとして、ウイルス感染症の歴史は続く。それにしても、先端医療技術が進歩した日本や欧米諸国で、なぜ、昨年来のCOVID-19という感染症の問題がおきたのだろう。「科学的に考えれば」、感染症の病原体が分かれば予防も治療も出来るはずだ、と誰しも思う。そうした医学への信頼が揺らいでしまった。そもそも医学は科学なのだろうか。本稿は『科学哲学へのいざない』(青土社)でも取り上げた感染症関連の話題のアップデート版である。

 

佐藤直樹『科学哲学へのいざない』(青土社)

 

 ここでは、医学には基礎と臨床、つまり科学と技術の二つの面があることを考えなければならない。コロナウイルスがどんなもので、どんなしくみで感染・増殖するかという知識、あるいはワクチンによる免疫獲得の基本的な理解は科学の範疇(はんちゅう)である。実際に患者を目の前にして、それぞれの患者ごとに最適な治療法を適用するノウハウや、具体的にどんな薬やワクチンを開発するのかは技術である。「科学技術」という言葉もあるように、科学と技術はとかく混同される。科学は単なる知識というよりも、論理的な思考と実験・観察、それに検証というサイクルを組織的に行う科学者コミュニティーの活動そのものであり、そこから客観的に共有された知識ネットワークが拡大していく。それに対して、技術はそれぞれの場面に応じて使える知識を何でも投入し、工学なら便利な道具をつくり、医学なら病気に悩む患者を治療する。その場合、科学以外の知識を使ってもよく、政治的な要請にも応えなければならない。逆に政治を利用することもあろう。ただ、社会的に影響力のある技術を普及させる政策は、技術で何ができるかだけでなく、人権や自由、経済、国際関係など、さまざまな次元の問題をすりあわせて国民の信頼を得なければならない。

 

 そのため、社会で実際に技術を使う際、科学的知識がそのまま適用できるわけではない。現実的な条件をさまざまに考える必要がある。科学と技術、さらに政治は本質的に異なる営みである。だから、「科学者」がテレビのワイドショーに出てきて、感染対策として外出自粛を訴えるのは、本来、科学的な行為ではない。感染症の専門家でもないノーベル賞学者に、感染拡大防止についてお伺いをたてるマスコミもあった。科学というのは個人的信念でないのはもちろん、自分の研究成果でも、そのまま世の中に発信すべきものではない。専門家のコミュニティーによる検証を経て共有され、学術的な価値を付与された知識が科学知識である。それを感染対策に適用する際にはさまざまな技術も必要で、さらに政策決定が求められる。ところが、こうした危機的状況の中で、自分が試みた計算や実験の結果を少しでも早く人々に伝えて、感染爆発を防ぎたいという科学者が何人も現れた。しかし、早まってはいけない。

 

 実際、感染爆発のシミュレーションは、適当な伝播率(でんぱりつ)を想定した指数関数という単純な計算の結果でしかない。テレビも近頃はこうしたものを取り上げなくなった。あるいは、いろいろあるシミュレーションのうちの一つという程度の扱いである。数年前まで私も兼担していた東大理学部では、昨年春、ある教員のシミュレーション結果をホームページに示して、学外に向けて行動抑制を呼びかけるという活動を行った。科学の社会貢献のつもりだったという肯定的な自己評価が、その後、東大出版会の月刊誌『UP』にも掲載された。そこでは、たった1%の人でも行動制限しなければ感染爆発になると言っていたが、常識的に考えて、99%の人に制約を徹底するのは無理だと思わないのだろうか。これは昔から決して実現しない「哲人政治」を思い起こさせる。いくら優れた理論や学説をもってしても、それで国は治められない。仮に真理を突き止めたと思っても、真理であること自体、簡単には判断できない。近代国家であれば、社会に働きかけて人々を動かすには、それなりのしくみや手続きが必要である。価値が広く共有されていない計算結果を示して、闇雲に自分の信条を訴えてもだめである。

 

 シミュレーションとしては、理化学研究所のスーパーコンピュータ「富岳」による飛沫(ひまつ)拡散の話もある。これは口や鼻から飛び散る飛沫が空間内をどのように拡がっていくかという計算による推定を動画で見せるものだが、これも最近はあまりお目にかからない。本来、こういう物理現象のシミュレーションは、実験とセットで行うべきもので、計算だけでは評価できない。理化学研究所は高価な計算機導入の意義を誇示したかったようだが、これもまた、科学的態度とは程遠い。仮に実測するにしても、再現性と一般性のあるデータを得ることは容易ではない。

 

科学、技術、政策と「総合知」としての科学哲学

 

科学、技術、政策、科学哲学の役割と関係性(図は佐藤名誉教授提供)

 

 では、科学と社会の関係はどうあるべきだろうか。何らかの形で社会の利益にならない科学研究は意味がないというのは、科学も人類の文化活動の一つだという原理的な意味では正しい。しかし、未知の感染症という差し迫った社会的危機において、すぐに役立つ知識や行動規範を科学に求めるのは無理である。科学は知識の宝庫というよりも、知識を更新していく活動と捉えるべきである。既存の知識をさらに更新し、新たな知識を生み出していく活動そのものが科学である。科学では、真理は永遠の努力目標で、いわば未来に真理があると私は考える。それでは何も行動できないといわれるかもしれないが、科学と技術と政治は違う。オカルトなどの「偽科学」では、不変の真理がすでに与えられていることになっていて、人々はその方が安心して行動できると思ってしまう恐れもある。実際に技術に利用できるのは既存の科学知識であるし、政策に活かせるのも確立した技術だけである。逆に科学はそうしたものを再検証する役割がある。そのとき、科学と技術、政策の間でかじ取りをするのは、哲学、特に科学哲学と呼ばれる学問の役割ではないかと思う。哲学は世間的には文系の学問といわれるが、私は、現代の哲学は「総合知」であるべきだと考える。科学や技術、社会、これらを幅広く理解できる総合的学問として哲学を再定義するならば、幅広く勉強する日本の教育システムは案外こうした目的に適っている。簡単ではないが、総合知としての科学哲学にチャレンジする学生が増えるとよいと思う。

 

佐藤直樹(さとう・なおき)名誉教授(東京大学大学院総合文化研究科) 81年東大大学院理学系研究科単位取得退学。理学博士。埼玉大学教授、東大大学院総合文化研究科教授などを経て19年より名誉教授。

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