文化

2025年12月1日

東大音ひろば特別編 保存から創造へ──「録音」の可能性を探る

 

 私たちは、普段音楽をどのような形で聴いているだろうか。街中や飲食店なんかのスピーカー、テレビやゲームのBGM、いろいろ挙げれば切りがないが、何よりも現代において「音楽を聴く」という言葉の指す内容は、「録音で音楽を聴く」という場合が大勢を占めると言って差し支えないだろう。蓄音機が1877年に発明されて以降、古くはレコードやCD、そして現在はストリーミング配信などで人々は「録音」を入手し、スピーカーやイヤホン、ないしはワイヤレスイヤホンがいつだかそれらを流すための装置として人々に受け入れられるようになった。

 

 一方で、音楽を好む人たちの間には、「生演奏」に対する、ある種信仰のような熱狂的支持が根強く存在する。記者自身もクラシックのコンサートによく出向くし、周りでも大好きなアーティストのライブに行く/行ったなどといった話題が取り沙汰されることは日常茶飯事である。確かに、いかなる高性能なスピーカーやスクリーンによっても再現できない、体に直接伝わる振動や臨場感、非日常に盛り上がる聴衆であることの熱狂の感覚は何物にも代え難い。どのようなジャンルの音楽においても、聴き手にとってライブパフォーマンスが録音を優越していると言えるだろう。

 

 しかし録音というものが発明されて以降、音楽を作る側はその革命的な手法の価値を認め、録音をどのように音楽創作において活用するか考えてきたことも事実だ。録音はそこでは単に演奏を記録するための道具にとどまらず、録音機材は作曲家や演奏家にとって新しい「楽器」としての性格さえ帯び始める。実際、自然界の音をフィールドに出向いて録音し、楽譜に書き起こしたオリヴィエ・メシアンや、録音された声をサンプリングして弦楽四重奏と共鳴させたスティーヴ・ライヒなどは、録音を素材とする創作の可能性を切り拓いた代表例だろう。つまり録音は、受動的な「複製」ではなく、能動的に音楽を形づくる創造の契機ともなりうるのだ。今回の「東大音ひろば 特別編」では音楽特集号に寄せて、音楽を演奏する・聴取する上ですっかり欠かすことのできないものとなった「録音」について少考を巡らせるとしよう。

 

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  録音という技術が最初に音楽にもたらした最も基本的な意味は、言うまでもなく「演奏を、時間を越えて保存すること」だった。そもそも音楽は、絵画や文学のように物としては残らない芸術であった。演奏はその場限りで鳴り響き、演奏が終われば空気の振動とともに消え去ってしまう。そこには「今ここでしか体験できない」という一回性の美しさがあった反面、二度と同じものには触れられないというはかなさもつきまとっていた。

 

 ところが19世紀末に登場した録音技術は、その宿命を揺るがす。蓄音機やレコードは、消え去るはずだった演奏を物理的な記録としてとどめ、後になって何度でも再生することを可能にした。人々は初めて「演奏を聴き返す」という体験を得て、音楽は一瞬の出来事から反復可能な記録物へと性格を変えていく。保存の技術は、音楽に対する人々の向き合い方そのものを根底から書き換える革命だったのである。

 

 カナダのピアニスト、グレン・グールドがこの録音の革命性に取りつかれたことについては言及しておきたい。31歳だった1964年、彼は「コンサート・ドロップアウト」を宣言し、以後は録音に専念する道を選んだ。グールドにとって録音は単なる保存手段ではなく、むしろ創作の場だった。何度も演奏を重ね、編集を加え、理想的な演奏を構築することができる録音は、彼にとってコンサートホールの偶然性や不完全さを超える芸術の未来を意味していた。録音はもはや過去を残す装置にとどまらず、未来を作り出すための新たな楽器とも言える存在になったのである。この衝撃的な出来事は、しかしほぼ同時代にロック音楽の世界でも起きている。1966年にはビーチボーイズのブライアン・ウィルソンがツアーに参加せずスタジオに引きこもり、傑作『Pet Sounds』を生み出し、ビートルズが1966年にコンサートを辞め、これまた音楽史に残る傑作である『Revolver』や『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を完成させている。「音楽家が、その晴れ舞台とも言えるライブパフォーマンスの場を投げ出して、スタジオにこもり録音に没頭する」というのは音楽の歴史や聴衆の感覚を踏まえるとショッキングなことのようにすら思えるが、これらの出来事に共通して言えることは、録音がもはやその保存機能を超えて、むしろ音楽における「創作の素材」として扱われるように変質する過程であったということだろう。先に挙げた例の他にも、例えばビートルズは『Tomorrow Never Knows』という曲でテープを逆回転させることで不思議な音響を取り入れていたり、『Being for the Benefit of Mr. Kite!』という曲では、「パイプオルガンの演奏が録音されているテープを、バラバラに裁断してランダムにつなぎ合わせる」という奇想天外な手法まで使用している。つまるところ、20世紀後半の音楽創作の現場においては、録音された音を取り入れ、それを再構成・変奏しながら新たな音楽を立ち上げるという実践が、作曲の中心的戦略になっていったのである。

 

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 こうして録音は、演奏を残す道具から、音楽そのものを生み出すための創作の場へと大きく意味を変えていった。しかも録音は単に音響的な実験にとどまらず、人間の記憶や歴史を扱うためのメディアとしても重層的な意味を与えられて用いられるようになる。アメリカの作曲家であるスティーヴ・ライヒの諸作品は、このことを考えるにあたり最も重要だと言えるだろう。

 

 彼の代表作『Different Trains』は、そのもっとも象徴的な事例だ。ライヒは、ユダヤ人である自身の背景と第二次世界大戦期の「列車」(これはゴダールの作品などにもみられるように、ナチスがユダヤ人を運ぶために用いた貨物列車の示唆だ)を重ね合わせ、ライヒにゆかりのある人物や鉄道職員、そしてホロコーストを生き延びた人々の体験を語る録音を素材とし、その声のイントネーションに音程を当てはめ弦楽四重奏に模倣させることで、録音と生演奏を分かち難く結び付けた。この曲においては、ビオラとチェロが録音された肉声に音を重ね合わせ、バイオリンは汽笛に音を重ね合わせる。そこでは録音はもはや背景資料ではなく、音楽の核そのものとなり、生演奏の弦楽四重奏を追従させ、個人の記憶を社会的・歴史的な記憶へと響かせる極めて重要な役割を担っている。

 

 ライヒは『Different Trains』以後も、録音を効果的に用いた作品を数多く発表している。代表的なのが、ニューヨークの日常音をサンプラーに取り込みアンサンブルと融合させた『City Life』や、9.11同時多発テロに関連する通報記録や証言を用いた『WTC 9/11』である。街の喧噪(けんそう)や災禍の声といった、現実に生きる人間の「声」そのものを音楽素材として扱うことで、ライヒの作品は記録と芸術、個人と社会、現在と過去の境界を揺さぶり続けてきた。ここで明らかなのは、録音が単なる保存の道具でも、音響実験の素材でもなく、人々の経験や記憶を未来へ伝えるためのメディアとして機能しているということである。録音を通じて音楽は、時に証言を背負い、歴史と向き合う手段へと変貌を遂げたのだ。

 

 録音を素材として扱う実践は、これまで見てきた通りクラシック音楽や現代音楽にとどまらない。20世紀後半にはヒップホップが登場し、既存のレコードからフレーズを抜き出して再構築するサンプリング文化が生まれた。録音済みの音楽は、もはや「過去の記録」ではなく「未来の素材」へと転じ、音楽創作の新しい基盤を築いたのである。

 

 そしてこのサンプリングの感覚をきわめて洗練された形で引き継いでいるのが、現在世界的な人気を誇るK-POPだ。たとえばONFの『Bye My Monster』は、ラフマニノフ「交響曲第2番第3楽章」のとても甘美的なメロディを大胆に引用することで、恋愛のどん底を嘆く曲に重厚感を遺憾無く与えている。また、BLACKPINKの『Shut Down』は、冒頭からパガニーニ「ヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』」をトラップビートの刻みに合わせ、3拍子の曲想を生かしたヒップホップ調の曲として完成させられている。これらの楽曲においては録音による「既存の音楽」が、単なる引用や装飾を超えて、作品全体のアイデンティテーを決定づける核心として機能しているといえるし、それどころか既存の音楽がサンプリングで新たな曲の要素となることで、その既存の音楽そのものに対しても新たな解釈を突きつけることさえできるとも言える。つまり、K-POPにおけるこうしたサンプリングの用法は、単なる「過去の名曲を借りてくる」行為ではない。それはむしろ、グローバルな聴衆が持つ音楽的記憶を呼び起こし、そこに新しいスタイルや物語を重ね合わせる戦略として機能している。クラシックや伝統音楽の有名な旋律は、ときに世界中の聴き手にとってある種の「共通言語」であり、それをヒップホップやEDMのリズムに載せて再解釈することで、聴き手に親しみと新鮮さを同時に与える強力な音楽となるのだ。

 

 さらに言えば、サンプリングの魅力は「過去と現在の対話」を実現する点にある。ラフマニノフやパガニーニといった19世紀の作曲家の音楽が、21世紀の韓国アイドルグループの楽曲の中で再び響くとき、それは単なる再利用ではなく、歴史的な音楽遺産を現代のポップカルチャーの文脈に接続し直す営みでもある。あるいは、ILLITの『빌려온 고양이 (Do the Dance)』では、1989年公開のアニメ映画『ファイブスター物語』の劇中音楽「優雅なる脱走」の一部がサンプリングされている。原曲の作曲者自身は「数十曲のうちの1曲にすぎないと思っていた楽曲に、時を越えて新たな命が吹き込まれるとは夢にも思わなかった」と語っており、ここでも録音は、保存と創作を媒介するだけでなく、文化的記憶を呼び覚まし、埋もれていた過去に新しい意味を与える役割を担っているのである。

 

 録音は、過去を保存する技術として始まり、やがて創作のための楽器となり、さらに記憶や証言を未来へつなぐメディアへと発展してきた。そして現代においては、クラシックからポップス、さらにはアニメ音楽に至るまで、時代やジャンルを越えて音楽を呼び戻し、新たな命を吹き込む装置として機能している。イヤホンから流れる一曲の背後には、しばしば数十年、あるいは数世紀にわたる音楽の記憶が刻まれているのだ。録音とは、単なる再生や複製ではなく、私たちを過去と未来へとつなぎとめる「時間の芸術」を拡張し続ける技術にほかならない。

 

 普段、聞き手にとってはただ音楽を「いつでも」「どこでも」便利に聴くためだけに用いられる「録音」だが、音楽をつくるという営みの内においては、過去を保存し、未来を構想し、記憶を呼び覚ますための創造的な楽器であり続けてきたのだ。そう考えれば、普段何気なく私たちがイヤホンで聴くその音楽の一つ一つの音にも、いろいろな意味や背景、含蓄を見つけることができるのではないだろうか。【乃】

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