学術

2016年10月4日

第1回講義録! 東大で注目の講義「ボーカロイド音楽論」全文掲載

 2016年のSセメスターに「ボーカロイド音楽論」と称したゼミが行われた。自身もボーカロイドで作曲するボカロPであり、音楽評論家でもある鮎川ぱてさんが講師を務め、人文科学の視点でボーカロイドを論じる講義という斬新さから、東大の内外から注目を集めた。

 

 この9月から始まったAセメスターでは、主題科目として木曜5限に開講される。シラバスに掲載された「授業のキーワード」には「ぼくのかんがえたさいきょうリベラルアーツ」とある。注目の「ボーカロイド音楽論」、Sセメスターに行われた講義の第1回の様子を、書き起こしで掲載する。

 

(Sセメスター開講前の3月に行ったインタビューはこちら→ 初音ミクでエンタメはどう変わったのか? 東京大学初のボカロPによるゼミに迫る

 

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ボーカロイドのなにを学ぶのか


 たくさんの方にお集まりいただけて嬉しいです。「ボーカロイド音楽論」、講師を務めさせていただきます鮎川ぱてと申します。よろしくお願いします。

 

 この講義のことを、ネットで知った方が多いんじゃないかと思います。なのでこの告知画像を見てくださった方も多いと思いますが、「ボーカロイド音楽と、その流行現象の本質を問う」とあります。そして、「主なアプローチ手法は、記号論、ジェンダー論、精神分析」。

 

 1年生も集まってくれていますね、入学おめでとうございます。基本的に、この講義のレベル設定は、前提知識としてなにかを知っていないと理解できない、というものではありません。さっきまで高校生だった皆さんにも、楽しく考えていけるものにしたいと思っています。なので、記号論やジェンダー論について現時点で知っている必要はまったくありません。むしろ、ボカロを中心に、いろいろなアプローチ手法の、わかりやすい部分をアラカルトで横断的に紹介していくような側面を持たせたいなと思っています。

 

 ぼくは昔、この大学の理科1類に入学したんですね。当時のことを思い出してみると、さっきまで高校生だったのが、いきなり大学に入って、それまでの勉強とがらりと変わって、最初少し戸惑ったようなところがありました。

 

 大学の学問というのは、人文科学、社会科学、自然科学という3カテゴリに基本的には大別されます。高校までの、国語算数理科社会語学みたいな教科から、カテゴリがゼロから再組織されるようなところがあります。

 

 大学の学部で対応するものを、代表的なもので書いていくと、

 

人文科学 文学部、芸術学部。人間てなんだろうということを中心に考える学問ですね。英語ではHumanitiesと言います。

 

社会科学 法学部、経済学部。法律も経済も、人類文明の社会が、それ自体の歴史的発展に併せて発展させてきたものです。そういう、社会にとってほぼ不可分と言いうるものについて考える学問です。英語ではSocial Sciencesと言います。

 

自然科学 ざっくり、理系。自然という外界は、人間がどう思うか、解釈するかにかかわらず、特定の物理法則を持っている。人類文明の発展段階と関係なしに、昔もいまも、物体の落下運動は一定の法則に則っている。そういうロジックを探求していく学問です。物理学や工学はこの説明で想像しやすいと思います。英語ではNatural Sciencesと言います。

 

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 いま書いたベン図は、ぼくの世代が入学したころに教えられたものですけど、その後、理系の重要な学問として情報科学が台頭してきます。人工的かつ人間が介入可能であるにせよ、独自の自律的な論理体系を持っているという意味では、さしあたってこれも広義の自然科学に大別しておいていいと思います。

 

 なんでこのベン図を書いたかというと、なにかを語ろうというときに、たいていのものは、どの学問からもアプローチ可能だと思うんですね。経済学的に「ボカロ登場が与えた経済的影響を算出する」とか、工学的に「物理現象としての声とボカロをより接近させるには」とか。そういうアプローチもすでになされていますし、大学でボカロを扱うというのはぜんぜん初めてではありません。それでもこの講義が注目していただけたのは、実際のボカロPが講義をするということ、それと、あえて言えば、東大でするという点でしょう。

 

 これまでも扱われてきたことの例としては、たとえば、皆さんご存知のニコニコ動画というのは、ただの動画サイトではなくて、コメント機能を中心に独自のインターフェイスがあって、そのまわりに独自のコミュニティを形成していますよね。その先進性を、もう2008年の時点で情報社会学者の濱野智史さんが『アーキテクチャーの生態系』という本を発表されています。初音ミクの発売が2007年8月31日ですから、かなり早い時点の研究ですね。あのサイトの設計がニコニコ特有のコミュニケーションにどう密接に関係しているかということが論じられています。

 

 いま2016年ですから、ミク発売から9年目です。9年のあいだに、ボカロシーンは簡単には全体を要約できないほど豊かで大きな広がりを形成しました。この貴重な機会をいただいて、これから105分の講義を13回やらせていただくわけですが、これは一見たくさん時間があるように見えて、ボカロシーンの全体を素直に描いていくには、まったく足りないとぼくは思っています。なのでこの講義では、その大きな全体に対して、一点突破的に急所を突くようなやり方で切り込んでいくという戦略をとります。全力でやらせてもらいたいと思っていますので、よろしくお付き合いください。

 

この講義で扱うこと、扱わないこと


 さっき言った、記号論、ジェンダー論、精神分析というのは、端的に、人文科学の手法です。これはただの白色のチョークだけど、俺の中では指揮棒なんだとか、白いワニに追われる悪夢を見た後の人にはおぞましく恐ろしいものに見えるとか、実際の物理空間中でどうであるかということと関係なしに、人の想像力の次元に存在するもの――すなわち「意味」を分析するものです。この「意味」の次元を持っていることこそが、人間をほかの動物から差別化するもので、人間である条件である。西洋哲学が長らくそのように扱ってきているところのものです。

 

 その「意味を考える手法」の中で、今回ボカロを考える上で、ぼくがとくに有用だと思ったのがこの3つだと、さしあたっては説明しておきます。

 

 あと、この講義で「やらないこと」を挙げておきましょうか。

 

 制作演習ではありません。実際にPCを持ち出して、こう作ればいいよとかはやりません。ぼく自身は最高3万再生くらいでいわゆる有名ボカロPではないので、そういうことをやるならもっと有名なPがやったほうがいいですねw

 

 どうやったらニコ動で再生数を稼げるか、みたいなコツも教えられません。それは、ぼくが教えてほしいw

 音楽大学の講義では、アナリーゼといって、和声がどうなっていて、それに対してメロディの関係がどうだとか、いわゆる五線譜的分析をやります。この講義ではそういうことはやらないので、受講にあたって読譜能力も必要ありません。

 

 あとは、ミクといったときに、キャラクター的側面に特化した議論もそれなりに世の中に流通していますが、その種のいわゆるキャラクター論というのも、この講義ではあんまりやりません。ボーカロイド「音楽論」なので、この講義は音楽について考えることがメインになります。ただ、それを歌うのが、人ではなくて、GUMIやミクなどボーカロイドであるからこその音楽体験、聴覚経験があるはずだ、という立場をぼくはとっていますので、音楽の聴取経験の特殊性を考える上ではボカロとはなにかということをもちろん問うていくことになります。

 

「ミクさんマジ天使!」と言って、キャラクターとしてのボカロをすごく愛玩するボカロファンの方も一定数いて、彼らは通称「ミク廃」と呼ばれています。仲のいい友達にもミク廃は何人かいます。ボカロや初音ミクの楽しみ方に、これはよくてこれはダメというのはないと思っています。でも、そういう感性はこの講義の主役ではないかな、という感じですかね。そのような感性を主役としない必然性は、講義を聴き進めるうちにわかってもらえることになると思います。

 

「ボカロ」というジャンルの条件とは?


 さて、たいていの講義で最初にやるのが、手法の説明――これはさっき軽くしましたが、それに併せて、対象の領域策定というのもやると思うんですね。ボーカロイドを音楽として扱う、ボカロをめぐる音楽について考えると言ったものの、「ボーカロイド音楽論」のいうボカロとはなにか。それをまず明らかにしたいと思いますので、ここで1曲聴きましょう。

 

 近年だと人気Pの代表格のひとりである、ハニワ。まあ、ハニワ違いなんですけど、HoneyWorksさんではなく、HaniwaさんというPの曲を聴いてみましょう。

 

 

 ということで、本講義本編の記念すべき1曲目は、Haniwaさんでした。この曲の中で言っていた通りの問題があると思います。この曲は、「ボーカロイド」という言葉を、ひとつの音楽ジャンルと捉えていますね。ぼくらも日常的に、こういう用法もしていると思います。「音楽どんなの聞くの?」「ボカロとか~」というふうに。

 

 この曲の中での問いの通り、歌を担うのがボカロであればボカロ曲なのか。そうではありませんよね。既発の、人間が歌ったバージョンが先に出ている曲のボカロによるカヴァー版を後から発表したときには、それをボカロ曲とは言わないというのが通念的理解だと思います。

 

 とくにミクが発表されたばかりの初期のころはたくさんのカヴァー曲が投稿されていて、「粉雪」は100万再生にも到達していて有名ですよね。でも「粉雪」自体を「ボカロ曲」という人はあまりいないでしょう。

 

 逆に、ぼーかりおどPさんの「1/6」という曲は、(ニコ動に投稿され一般に公開された)初出はボカロですよね。それをその後、人間が歌ってカヴァーしたら、ふつうのポピュラーソングになるかというとそうでもない。「人間がボカロ曲を歌っている」という状態になりますよね。

 

 

 では、ある曲が「ボカロかどうか」は、世の人がアクセスできる状態になった初出時に、人間とボカロのどちらに歌われていたかで規定されるべきか。ぼくはそうは思いません。また、ライブPさんの「S・K・Y」は、ボカロ曲として親しまれ、ニコ動での初出も鏡音リンが歌唱したものですが、実はこの曲は、ボカロが登場するよりもっと以前から、ライブさんがご自身で歌っていた曲だそうです。

 

 

 ここでの「ボカロ」はジャンルであり、いま話しているのはある種のジャンル論ですが、音楽学者のカール・ダールハウスは『音楽史の基礎概念』という本の中で、さまざまなジャンルの呼称がどのような条件で成り立っているかを整理しています。

 

 ここでは手短に説明しますが、様式、時代、人種、世代、階層、場所などですね。たとえばダンス・ミュージックなら、「低音の4つ打ちがある」と様式による条件に思えますが、「踊るための」という用途らしきものも関係している。20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンのマイルス・デイヴィスは、自身の音楽を「ブラック・アーバン・ミュージック」と規定しましたが、この場合は明確に、人種と場所に条件がまたがっていますよね。かつ、ブリティッシュ・ロック、みたいに特定の地域ではなく、「urban=都市部」の音楽と言っていて、ある意味あいまいです。

 

 とこのように話してきた上で、ぼくは、ボカロとはなにか、という条件策定に拘泥しません。この条件を満たせばボカロである、という一定の条件を確立することが難しいけれども、みんなはボカロがなにかを緩やかに共通理解できている現状がある、ということだけを確認しておきたいと思います。

 

 そもそも、「境界が曖昧である」というのは、ジャンル概念に固有の問題でしょうか。普段喋っているときだって、言葉は領域策定的ではなく使われる場面もあるはずです。先ほどの学問3ジャンルのベン図にしたって、ベン図らしく重複する部分を作ってはいますが、それは「A」と「B」と「AかつB」という3つに厳密に弁別されるということではなくて、もっとグラデーションで溶け合ったものです。

 

 「明るい」と「まぶしい」に境界はあるか。このように、とくに形容詞を想像してもらえれば早いでしょう。言語とはそもそもそういう側面も持っている。境界策定的に使うこともできれば、境界の厳密さをさておいて使うこともできる、この両側面を同時に備えるのが言語のタフさである、ととりあえず言っておきます。

 

 いま話していることを別のメタファーで言えば、地形を把握するのに、ベン図と等高線、どちらがベターかということです。高尾山はどこから高尾山か。

 

 以前ツイッター上で、ドワンゴ会長の川上量生さんと哲学者の東浩紀さんが対論していたときに、川上さんは「文系の人は言葉の定義が曖昧で議論にならない。理系的にちゃんと定義してほしい」と言って匙を投げたことがありました。まさにベン図的定義を要求したんですね。それに対して東さんは「社会とか国家とかの大きい言葉は、その語の使われ方の歴史的な堆積に依存しているから一言では言えない」と返していました。

 

 こう話すとベン図的理解を下に見るかのようですが、ベン図的な言語理解には明確にメリットがあります。情報量が小さく、誤読可能性も小さいということです。頭のメモリー領域の消費も少ない。ただ、若い東大生のみなさんには、自分の知性への自負でもって、両方の言語理解を横断できるようであってほしいなと個人的には思います。

 

 ともかく、みんなのボカロという言葉の使い方にとって、このような説明の仕方のほうがシュアなのではないかと思います。このような話は以降の講義でまたリフレインしてくると思いますので、頭の片隅に置いておいてください。

 

 

個人ってなんだろう?


 さて、先ほど「キャラクター論はあまりやりません」と言いました。なので逆に、早い時点で済ませてしまおうと思っています。いや、そんな軽いものではないんですが、これから議論していきたいテーマに関連する部分だけ、ちょっとやっておきましょう。キャラクター表現の原型たる我々各人のあり方について、まず少し考えてみましょう。

 

 ネット上で発表しましたが、初回講義のタイトル「近代的主体と「裏表ラバーズ」」です。勇ましいタイトルをつけちゃったんですが、それについて考えるための下地です。
「個人」って、英語で言うとなんですか?

 

学生「individual」

 

 はい。personとかもありますが、individualと言いますね。では、これの語源は知っていますか?

 

別の学生「分割できない存在だから、dividualの否定形でindividual」

 

 その通りです。意味的にわかりやすく言うと、「in・divide・able」。「divide・able=divisible=分割可能」の否定形ということです(in=否定の接頭辞)。「分割不能」ということが、そのまま「個人」という意味として使われているわけです。

 分割できないというのは、人の身体があって、その中をひとつの精神が満たしている。それを各人の都合で勝手に分けないでね、という意味でもあります。たとえば、電車に乗っていて、隣の人を触ったりして――ダメですよもちろんw それで「なにするのよ!」と怒られて、「いや俺じゃなくて俺の左手が勝手にやっただけだから!」と言っても、だから俺は悪くないんだと言っても、通用しないですよね。「俺の左手」と「俺」の責任は分けられない。責任主体として、ひとつの身体は一貫したものであると。

 

 一方で、君が書いた小説がヒットして、印税が入りますよというときに、「この作品は、右手で書きつづけたものだから、この作品の著作権は私ではなく私の右手に与えてください」と言っても、めんどくさいよという話になりますよね。権利の所在として、勝手に自分を分割せずに一貫した権利主体やっといてよと。

 

 だから、この「individual」という言葉には、責任主体としても権利主体としても、勝手に分割しないでねという考え方が包含されているわけです。いまの話を聞いて、「いやいやその考え方おかしいよ」と思った人は、たぶんあんまりいないんじゃないかと思います。むしろ「ぱてさんなに当たり前のこと言ってんの」と思った方のほうが多いんじゃないでしょうか。

 

 ということは、我々は、近代=modernismという時代の思考フレームをすでに共有しているということです。さっき書いた3大学問ジャンルのうち、人文科学の人たちがずっと時間をかけて考えている大テーマが「近代とはなにか」ということです。

 

 これらは、高校までの歴史で習った、古代、中世、近世、近代、現代みたいな時間的な時代区分とはちょっと意味が違っています。いま話したような、特定の思考様式のベースが整備された時代を近代と言います。だからこそ、主体を勝手に分割しちゃダメですよね、みんなindividualですよねと言って、ほとんどの人が違和感を持たないということはどういうことかというと、我々は近代人だということです。近代の思考ベースをもう共有している。時間的時代区分では現代を生きているけど、近代人。

 

 人文科学は、人間とはなにかを考えつづける学問ですとさっき言ったばかりなので、このような考え方が人文科学的かというと、実は違うんですね。身体と精神を一貫したユニットとして捉えるというのは、非常に社会科学的な定義です。さっきまさに、ある種の犯罪的なこととか、著作権という権利的なことで例示した通り、社会科学の中でもとくに、法学的な前提です。人文科学は、昔も現代も、もうちょっと踏み込んで、「いや人間ってもうちょっと複雑だよね」という問い立てもたくさんしています。

 

でも、ひとりの中に複雑さがあっても、社会は当然たくさんの人間によって構成されているので、その中のひとりである個人については原則このように扱いましょう、というルールみたいなものです。

 

 それはルールじゃなくて、自明のことなんじゃないの?と思った方もいるかもしれません。でも身体は本当に、時間的にも空間的にも一貫したものでしょうか。――理系の人、挙手。(ちょうど半分くらい)あ、おどさん理系だったんですねw まあ、文理を問わずわかる人に答えてもらえればと思いますが、人の身体は何個の細胞でできているか知っていますか?

 

 ぼくも専門ではないのでネットで調べた知識ですが、40兆~60兆だそうです。この講義はボカロ論なので、みきとPの「サリシノハラ」に準じて60兆ということにしておきましょうかw

 

 

 身体が60兆の細胞でできていて、あれな話ですが、みんな毎日お風呂に入って、垢を落とす。身体では毎日新しい細胞が生まれて古い細胞は死んでいっていて、ようは新陳代謝している。これもネットで調べたレベルの情報ですが、だいたい5~7年をかけてすべての細胞が入れ替わるそうです(2年説というのも見かけましたが)。

 だから、屁理屈としては、7年前の自分といまの自分は、物理的な同一性はまったくないわけです。正確を期していうと、脳みそは新陳代謝しないらしいんですけどね。でもたとえば、なにか7年以上前に犯罪を犯した人が捕まったとして、屁理屈で、「犯罪を犯した時点といまの自分はほとんど別の存在だから関係ない」と言ったとしても、これも通用しない。

 

 新陳代謝って、雑な言い方をするとバケツリレーで、古い細胞が死んだら、その細胞が担っていたのと同じ役を果たす細胞が新しく生まれるわけで、全体の機能は温存されるようになっている。変わりつづけているけれども、同一性を維持しつづけている。生物学者の福岡伸一さんが2007年に『生物と無生物のあいだ』という新書を発表してベストセラーになりましたが、福岡さんはこの本の中で生命の条件を「動的平衡を持っていること」と定義していました。

 

 ぼくも、こう話しているあいだにも、細胞が死んで生まれてということを恒常的にやっている、当然自覚はまったくないですが。皆さんもそうだし、全員が、自覚なしに同じことをやっている。

 

 

細胞:個人=個人:法人 のアナロジー


 いったんここまでの話をまとめましょう。精神に関しても、物理的な身体に関しても、個人は一貫したものですよという考え方が近代的だという説明をしました。そしてそれは絶対的な自明のものではなくて、そういうふうに捉えましょうという、共通合意に近いものです。

 

 一個人の中で、細胞が部分としてあって、それが勝手に交代していく。その上で個人を統一体として定義するのは社会的な、法的なルールでしかない。そういうものを、皆さんは社会の中の既存のあるものですでに知っています。「法人」という概念があります。法人ってなんのことでしょう?

 

学生「会社とか」

 

 そうですね。会社すなわち営利法人、社団法人、宗教法人とかいろいろありますけど、あれは、すごく簡単に言うと、法的に一人格ですよということです。個人に準ずる権利を、法的にひとつの統一体と見なされる「法人」なる組織に認めますよと。だから、特許だとか、一個人が権利を持つのと同様に、一法人として権利主体になることができる。

 

 ツイッターで見かけた話なんですが――法人はバラバラの個人の集まりによって成り立っていますが、あるクリエイターが、Aさんという担当者と契約の話を進めていて、担当がBさんに変わったら、「Aが約束したことは知りませんから」と白紙にされたと。これ、ルール的に言ったらありえないわけです。さっきの話で言えば、「右手で人様のおっぱい触ったけど、おれ左手だから関係ないし」ということです。おっぱいって言わなくていいかw 法人なのに、おれ左手だから関係ありませんくらいのことを言っている。クリエイターはこういうこともわからないバカだと思って舐めてるのか、残念ながら、たまにこの種の話は聞きますね。

 

 法人は、組織全体で一個人に準ずるものとしてとらえられるけど、具体的には、その組織はたくさんの個人によって構成されていて、たとえばTOYOTAのような大きい会社だと、日本中に何十万人も社員がいるわけですよね。それくらいの規模になると、毎日退職者がいて、毎日中途採用で新しい人が入ってきて、というのをずっとやってるんだと思います。

 

 中途で辞める人ももちろんたくさんいるでしょうけど、老衰した細胞が垢となってお風呂で削り落とされていくように、一定の年齢になった人は辞めていって、新しい細胞が生まれるように、ある時期に新卒社会人が補給される。ある意味、大きい組織ほど、人間の個体と同じように、新陳代謝による動的平衡に近い状態がつねに成り立っていると思います。

 つまり、

 

個人:細胞
法人:個人

 

というふたつのペアについて、「全体と部分」という関係が相同的ですよね。一年生を想定して言うと、こういうものの考え方をアナロジーと言います。AとBの関係が、CとDの関係に似ていますね、対応していますねということを見いだすのをアナロジー的思考と言います。日本語では「類推」という訳語が当てられます。

 

 さらにこのアナロジー的思考を続けてみたいと思うんですが、次に、全体を「人類」、Human Raceそのものと見立ててみましょう。人類という種自体を全体としたときに、部分に相当するのは、法人の場合と同じく個人でいいと思います。さっき、人体は60兆の細胞で構成されていると言いましたけど、同じように言うと、人類という種は、72億の個人によって構成されていると言えます。

 

 昔、リチャード・ドーキンスという、この人も生物学者ですが、彼の『利己的な遺伝子』という本が、ちょうど40年前の1976年に発表されて、日本でも世界でもベストセラーになりました。ちょっとショッキングなものの見方をしているから、驚きとともに評判になったんですが、「あらゆる生物は、遺伝子の乗り物でしかない」と言ったんですね。我々各人は、自分の行動は、自分がやりたいからそうしている、と思っている。でも個体それぞれの活動を総合的に俯瞰して見ると、遺伝子が、自分が地球上でずっと存在しつづけたいから、遺伝子が個体に対して、そう欲望するようにプログラムしているにすぎない。

 

 このように、主語を遺伝子にしてとらえた視点が面白かった。個体はときに、自分を差し置いて利他行動をする。『進撃の巨人』冒頭にもありましたが、自分を犠牲にしてまでほかの人を救おうとする気持ちは美しいものとして物語コンテンツの中でしばしば描かれます。ハチさんの好きな、宮沢賢治の『春と修羅』も自己犠牲をテーマにしていますね。しかしこのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利己行動にすぎないとドーキンスは説明します

 

 みんなは自分の意志で、いまだったら好きにこの授業を受けたりしていて、そのあいだにも、勝手に細胞が生まれて、勝手に細胞が死んでいっている。それは身体が勝手にやってくれている。「ちょっとそこの細胞くん、そろそろ古くなったから離脱して」とか、自分の意志でいちいち指示しなくても新陳代謝は勝手に行われているから、まあ、楽です。これを対応させるとしたら、「人類さん」という全体を擬人化して言えば、今日だってどこかではたくさんの人が死んで、たくさんの人が生まれている。それを勝手にやってくれると、いま擬人化している「人類さん」は楽ですよね。つまり、勝手に再生産してくれると楽だと。だから、遺伝子を主語にして言うと、再生産したくなるように個体をプログラミングしておけば、自分の内部の新陳代謝を意識しなくても、楽に長らえられるよねと。

 

 ネットの事前告知でも、性、セックスを扱っていきますよと言いました。性というのは、このようにある一面で言えば、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけですね。

 

国家がセックスを管理している?


 さて、もうちょっと、これを全体と見立てて擬人化してみると、というアナロジー思考を続けていきましょう。人類ってあまりにでかかったですけど、72億の人たちは、多くは国籍を持っていて、どこかの国家に所属しています。なので今回は、「全体」を国家としてみます。部分に相当するのは、引き続き個人です。

 

 全体を人類と見立てた先ほどの図式は、ほかの動物にもだいたい当てはまりますよね。生殖したいという再生産のための欲望があらかじめインストールされていて、放っておけば死んで、放っておけば再生産して、個体数の減少と増加が結果的に均衡していれば、種が温存される。これは人間だけに特有のことではないですよね。

 

 文明を得た人類は、再生産を要求するけど、ただの動物の論理の再生産に留まらず、再生産にクオリティを求めはじめます。野犬や野良猫だと、知らない猫と勝手にまぐわって、お父さんのわからない子どもを身ごもってくるということがあります。これは動物的自然ですが、そうじゃなくて、父が誰で母が誰でと出自がわかって、生んだからにはその親は子どもに責任を持つということで、子どものコントロール、つまり再生産のクオリティコントロールができる。クオリティの高い子どもが生まれてきたほうが国家は強くなるので、とくに帝国主義時代に、国家は再生産のクオリティを問いだします。そしてそれの手法として、性を家族の中に閉じ込めるということを、とくに近代に押し進めていきます

 

 動物のようにそこたら中で種を蒔かれたら困る。もう、結婚するパートナーとだけそういうことをして、そこで生まれた子どもに、家族として責任を持っていってくださいと。ご飯を食べさせて、死なせないでください。そして、それが可能な範疇で、たくさん子どもを作ってください。拡大再生産ですね。そのほうがぜったいに全体は強くなるから。いまもかなりそうですが、技術的に途上の昔であれば、国力=人口です。

 

 性を家族の中に押し込める、結婚という制度。これは昔からあるけれども、これをちゃんと、社会として国家として管理することが、国力増強に繋がりますよと。そうなっていったのが、近代の一側面です。

 

 管理という言い方をしましたが、国家が、その構成員である「個人」に対して、「やれ」と言う。再生産せよと言う。けれども同時に、「やるな」とも言っている。セックスしろとも、セックスするなとも言う。ほどよくやれ、あるいは、全体にとって都合よくやれと。こうしろというのと、こうするなという相反する命令に拘束されることを、精神生態学者のグレゴリー・ベイトソンは「ダブル・バインド」と呼びましたが、ベイトソンによると、この二重拘束は、人を鬱屈させていってしまう仕組みであると。そのようなことを、我々は国家から言われている――そのように考えることもできると思います。

 

 現状を考えると、この「ほどよくやる」というのをある程度は果たせているとも言えます。なぜなら、道を歩いていたら、そのへんの道ばたで急に誰かがセックスをしている、ということはほとんどないですよね。管理された状態をみんなで実現できているし、そのおかげで望まぬ性暴力から守られてもいる。「管理」というと自由を阻害するネガティヴなイメージが強いですが、一長一短であって、「性暴力の自由を阻害する」というかたちで、その管理がぼくらを守っている面もある。

 

 ともかく、この相反する命令をストレスフルにつねに感じていたくないから、それをうまく、ナチュラルに受け入れられるように、人類は長い時間をかけて、このダブル・バインドとともに生きていく技術、ある種、その命令をブラインドする技術を作り上げてきている。それが、「恋愛」という概念なのではないか。

 

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「恋愛」ってなんですか? ―フーコーの問題意識―


 ここまで話してきた、性の来歴を考える議論は、フランスの人文学者のミシェル・フーコーの研究に着想を得ています。フーコーの未完の遺作になった『性の歴史』という著作がとくに直接的に性を扱っていますが、それ以前にも、フーコーにとって性は重要な主題でした。フーコーの議論は、当面のこの講義の背骨になっていきます。

 ところで、「我々は国家に再生産せよと命令されている!」なんて、敏感すぎるんじゃないの? 極端な反国家主義思想なんじゃないの?と思われる方もいるかもしれません。そういうつもりではありませんし、ぼくは基本的に特定の思想を皆さんに強要することはしたくないと思っていますが、ここでひとつ例を挙げておきます。

 

 映画監督の今村昌平が撮った『女衒 ZEGEN』という作品があります。あくまでフィクションの映画なんですが、日本が帝国主義に傾いた時代に活躍した、村岡伊平治という実在の人物を主人公にしています。彼は日清戦争などで大陸に進軍する日本軍の意気発揚のために、現地に国立娼館を作ろうと奔走するんですね。その彼が、映画冒頭で、女性とセックスします。ベッドの枕元には明治天皇と大正天皇の写真があって、それを見ながら「お上の兵隊を作るんじゃー!」と言いながらセックスする。描かれているのは、いま話しているような、国家という全体の命令を完全に内面化し、同一化する個人の姿です。

 

 きっつい。いろんな意味で。いまのふつうの通念からしたら、きっついなと思った方は多いんじゃないかと思います。自分の性を国家の富国強兵のために差し出して、それ以上に、数年前にどこぞの首長が「女は産む機械」と発言して大問題になりましたが、それと同レベルの意識でセックスしている。当時にあっても、みんながみんな村岡伊平治みたいだったわけではありませんが、ただ、国民全体が村岡伊平治的なメンタリティに、少なくともいまよりは偏っていた時代があった。それが戦中の、全体主義時代の日本です。

 

 『女衒 ZEGEN』が公開されたのは1987年です。今村監督はこれ以外の作品でも、生殖と性と愛の関係が、時代と場所が変われば自明の同一のものではないぞということを――まさにフーコー的問題意識に等しいと言えると思いますが、それをある種露悪的に、突きつけるように描いてきた映画作家でした。

 

 戦後昭和の、それ以前に比べれば自由恋愛的で脱臭された性意識に対して、「お前のそれは戦前のこれと本当に無関係か?」と問いただすようなところがあったと思います。十分に希釈されているものの、むしろそのことによって自明のこととして社会に刷り込まれているもの。フーコーはこういうもののほうに敏感で、「ふつうこうするもの」として人の行動を方向づける潜在化した通念を、彼は「権力」と呼びました

 

 ちょっと過激な例を出したので、話を聞くだけでも抵抗を感じた人もいるかもしれません。ただ、強調しておくと、ここで話しているように性が複雑なものだからこそ、性や、性を語ることに抵抗があるというのも、現代において自然とありうる気持ちだと思いますし、ある意味では、そういう感情のほうがこの講義の主役です。個人的には、それは大事にしていい感情だと思います。ですので、個人の性意識について、指名してほかの受講生もいるこの教室で話してもらうということはこの講義ではしないつもりです。それ以外の質問はふつうに指名していきますけどね。

 

私たちは「恋愛」をどうやって知ったのか?


 今日集まってくれている学生のみんなは若いからちょっと前だし、駆けつけてくれたお友だちは年齢バラバラだけど、それぞれに、自分が小中学生だったころのことを思い出してみてほしいと思います。恋愛という通念を最初に知ったとき、それをすぐに理解できましたか?

 

 恋愛は、いろんな他者の都合が織り込まれた概念です。国家の、再生産してほしいという都合だったり、そこたら中で犬猫みたいにやっちゃわないようにという管理の都合だったり、そういうものが織り込まれた概念として、社会の中にすでに存在している。

 

 この複雑な概念を、どうやって知っていきましたか? ……ってこれも少し性意識に関係するからライトに聞いちゃダメかも。そうだ、遊びにきてくれてるオトナのお友だちに聞きましょう。


院長「管理の問題、そのへんでしたらダメとかは、小学校のころを思い出すと、もう理解してたと思います。だけど、恋愛の多様性……たとえばライバルがいるとか、そういうことは初恋の時点では、知ってはいるんだけど、実際の理解は遅れてやってくるというか。たとえば振られたりとかの体験を繰り返して、失敗を成功に変えていくプロセスの中で知っていったというのがあったかもしれないです」

 

 ありがとうございます。すごく深い回答だったと思います。「失敗から成功に」と言ってくれたけど、つまり実際にやってみるトライ&エラーで理解していったと。これはこういうものだ、と辞書的に、一度説明を聞いて、過不足のない理解を1回で得られた、というものではなかったわけですよね。逆に、辞書的な定義によって学んだ、という人はあまり多くないんじゃないかと思います。

 

 経験によって──友達の話を聞くとか、コンテンツの中で描かれる恋愛を見るとかを含む広義の経験と言ったほうがいいと思いますが、それらを通して、どうもこういうものらしいぞ、というふうに理解を塗り重ねていって、恋愛という概念を把握し、内面化していったという人のほうが多いんじゃないかと思います。

 

 最初に話した、「ボカロ」という概念をめぐる話と共通するものがありますよね。「ボカロ聴く?」とか、日常的に会話の中で使っている言葉で、その概念が当事者にとっては説明なしにも運用可能なものだけど、境界策定的に、辞書的に定義せよと言われたら急に難しい。同じことが起こっていると思います。恋愛にかぎらず、このように経験の塗り重ねから獲得してきている概念は、実はほかにもかなりあると思います。

 

 さて、ようやくボカロに近づいてくるんですけどw、最初の告知時に書きましたが、この講義では、ボカロシーンの中にアンチ・ラブソングが多いことに注目したいと思っています。

 

 大衆歌でもJポップでも呼び方はいいですけど、いわゆるふつうのポップスって、歌詞をよく聞いてみると、ラブソングばっかりですよね。「私のあなたへの想い~♪」みたいな。会いたくて震えたり。そういうものをテーマにした歌詞の曲が、ほとんどであるとまでは言わないものの、大きな多数勢力としてある。

 

 それに対して、ボカロシーンがぼくにとってすごく新鮮に見えたのが、たくさんの非ラブソングが、人気曲として存在感を放っていたことです。

 「ラブソングじゃない」という言い方は雑なんですけど、さっき言った、歴史的にいろんな都合が織り込まれて複雑な概念になっている恋愛というものを、既知のもの、自明のものとはせずに扱っているということです。それをまさに象徴するフレーズのひとつが「LOVEという得体の知れないもの」です。wowakaさんの「裏表ラバーズ」の一節ですね。明らかに、既知のものや自明のものとして扱っていない。

 今回の講義シリーズでは、ここを切り口にボーカロイド音楽論をやってみようと考えました。最終的には、ボカロを聴くこと、音楽を聴くこと自体の普遍的な本質をぐさっと突きたいんですけど、そこに至る経路として、序盤の3、4回では広義の「アンチ・ラブソング」を追っていきたいと思っています。

 では、第1回目のテーマである「裏表ラバーズ」を聞いてみましょうか。今日は歌詞をスクリーンに映すので、歌詞を改めて意識しながら聞いてみてほしいと思います。

 

♪wowaka「裏表ラバーズ」

 

 

 いい曲ですね……。
 すごく、いい曲です。今日の講義は、初回から、曲を聴くより理論編みたいなことを先にやったわけですけど、その上で曲を聴くと、感じが違って聞こえたという人がいたら、個人的には嬉しいです。

 

 Jポップをあんまりベタなもの扱いしすぎるのもよくないんですけど、Jポップが恋愛という通念をどう描くかというのと比べたときに、変わった描写がすごく多い名曲だと思います。

 「LOVEという得体の知れないもの」という表現は曲の冒頭にもう出てきますね。ミシェル・フーコー的な問いをwowakaさんも期せずしてやってしまっているとも言える。当たり前のように存在する通念を、それはいつから、どのようにそのような相貌でそこにあるのかと、突き放すように問い直す感性というか。

 

 それに加えて、LOVEという得体の知れないものに「犯されてしまう」と言っています。「LOVE」は、外から到来するんですね。「あなたと出会ったとき、私の中にLOVEという感情が芽生えたの」ではない。

 

 ここまで、フーコーの議論を援用して、生殖という再生産を社会化して管理する技法として恋愛が存在するという、端的に言って、すっごくドライな性の扱い方をしています。その一方で、愛といえば、皆さんも連想したんじゃないかと思いますが、キリスト教のキー概念ですよね

 

 果たして、近代という時代に急に恋愛という概念が作られたというわけではなくて、キリスト教的には2000年以上前からあるものです。ただ、哲学の中でも、西洋人にとってキリスト教の影響は根深いものがある。西洋哲学史上の偉大な哲学者たちが、人の本性とはなんだということを問いただしたときに、「人には、他人を愛する愛という感情が本質的に備わっているんだ」という立場に最終的にはなってしまうことが多い。キリスト教の愛の概念の正当性を、徹底的な哲学的問いただしの上でも肯定されるものとして、再強化してしまう。人という生き物は、インターナルにその能力を持っているのだと。

 

 こういう通念はいまもって西洋社会の中では強いので、フーコーは、かなりの変化球なわけです。もともとあったものではなくて、人類文化があるとき発明した技術なんだと。もっと言えば、「method to govern」。つまり、ある種の統治の手段として作られたものだと。こんなドライな扱い方もそうそうないですよね。

 

 「裏表ラバーズ」では、タイトルの「裏と表」だったり、心内環境が「ふたつの裂ける」だったり、相容れないふたつのものの対立が頻出します。「現実直視と現実逃避」とか。

 詩歌のテクニックに、「対句」というものがあります。読んで字のごとしですが、対句とは、対になるイメージをワンセットで提出する技法です。「右手には太陽、左手に海」、「立てば芍薬、座れば牡丹」とかね。さらには、それ自体が対句的になっている「自問自答」を、バリエーションで翻案して、3つ連続で言うということもしている(「自問自答 自問他答 他問自答」)。

 

 そもそも、対句というのは、言語表現の中でもとくに歌詞においては、メロディの反復に対応させやすいので基本技法として頻出するものです。ですが、そのような相性だけが根拠であるだろうとは思えないほど、ここでは過剰化されて登場する。対比的、分裂的な相容れないものの同居が強調されていると言えます。

 そして、サビでは、なんらか性的な、あるいは身体的な表現が続きますよね。横隔膜が突っ張るって、どういうことでしょう?

 

学生「横っ腹が痛くなる?」

 

 なるほど。ほかに、こう解釈しましたっていう人。おどさん、同じ作家としてどうですか?

 

ぼーかりおどP「しゃっくりかな?」

 

 おとなりの作家の方は?

 

ライブP「先言われちゃったな~(悔しそうに)」

 

ほんとかなwww 逃げられた感がありますがw 「何十万再生行くPの方はごまかし方も上手い」。これ試験に出ますからメモしておいてくださいね、というのは冗談ですがww

 

 横隔膜って、声を出すための、肺の下の部分ですよね。そこを「突っ張らせる」のではなく、勝手に「突っ張ってしまう」というのは、声をあげてしまう、自分の意志ではない物に声を出させられてしまうことだとぼくは解釈しました。自分の意志ではなく、声を上げさせにやってくるものはなにか。性的快感ではないか、と連想するのも過剰解釈ではないでしょう。

 

 そして、その「横隔膜」に先行して、それと対句されるのは「もーラブラブに」です。横隔膜と「LOVE」が対句的に対置されています。非常に対比的な1行だと思います。

 

 そもそも、横隔膜は日常語ではないわけで、大袈裟に言えば、医学的専門用語です。これをいきなりサビに投入してくる。身体の即物的な部位の唐突な登場が、そこで行われていることを暴き立てていると思います。愛とか恋愛とかの概念は、キレイにオブラーティングされているものだけど、結局は身体でやることやってるんでしょというような、身体の次元を突きつけてくる感じがあると思います

 

「裏表ラバーズ」の本家動画、wowakaさんによるグラフィックの中、日本語タイトルの下に「Love & Lovers」と書いてあります。「裏表ラバーズ」の英訳がそうなのかなと解釈できますが、「Lover」と単数形ではないんですね。日本語のタイトルも「ラバーズ」である。ふたりと考えるのが順当だと思いますけど、その二者の対比がある。その「複数性」は、わたしとあなたなのか、わたしの中にあるふたりなのか。

 

 また、「&」というのは明白に対置的な接続語ですけど、「Lover & Lover」ではなく、「Love & Lovers」。つまり、「愛」なるものと、それを行う人たちとが対置されている。日本語タイトルでもなく、歌詞自体にでもなく、ほとんど参照されない「動画内だけで示されたタイトル英訳」では、概念と人の対置、ということがひっそりと示されている。

 

 これ受験国語の問題ではないので、「答えは必ず問題文の中にある」とはかぎりません。外に答えがあるわけでもなくて、作者のwowakaさん自身も、これはこういう意味だよということを決めずに書いている可能性もある。そもそも、解釈とは、「作者の意図を正解と見なして、それを当てにいく」ゲームではありません。その上でもなお、作品を解釈していくことの意味は、今後の講義で考えたいと思いますが、「裏表ラバーズ」に関して確実に言えるのは、唯一の正しい解釈には帰着させられない、たくさんの対比や分裂がさまざまなかたちで変奏されているということです。

 

 

「恋愛」というよくわからない概念でごまかさない


 というあたりで、いい時間ですので、次回予告に入りましょう。

 肉体と精神の一貫性について責任を持つということが、近代社会における個人のルールですよ、という話をしましたが、相反する感情がひとりの中に生まれるということは日常的にあると思います。難しい話ではなくて、さっきカレー食べたいと思っていたけどいまはもうラーメンを食べたいとか。ぜんぜんありますよね。それと同じくらいに、セクシュアルなベクトルを大なり小なり、多くの人は持っている一方で、「作用と反作用」みたいに、それとは逆のベクトルのアンチ・セクシュアルな欲望も、誰もが同時に持ちうるんじゃないか、というのがぼくの見立てです

 

 プラスのベクトルを担う曲がたしかにポップスには多かったし、音楽評論家の湯川れい子さんという方は「人間は、思春期を迎えると、ラブソングを求めるようになる生き物なんです」とおっしゃっています。湯川さんは、御歳80歳というほどの、大御所評論家であり作詞家の方です。そんな人生経験豊かな方に「こうなんです!」と言われると、そうですか!と言いそうになってしまいますが――ただ彼女が身をもって経験しているのは、あくまで「20世紀後半の半世紀」にすぎないとも言える。果たして彼女が言ったことは、超時代的な人間の普遍なのでしょうか、時代と地域に限定された有限なものなのでしょうか

 

 セクシュアルな欲望の指向と、それへの反作用に相当するアンチ・セクシュアルな指向。しょせん身体が求めてやっているくだらないことにすぎないんじゃないかというような、性を、言わば軽蔑して突き放す感性。その両方が同じ1曲の中に織り込まれている感じというのが、最初に「裏表ラバーズ」を好きになったときの印象ではありました。

 

 そしてそれは、「恋愛という概念できれいぶってるけど実際こうだろ!」と露悪的に暴き立てるというより、自分がなにを感じているかを、徹底的に誠実に洗い出すゆえに、結果そうなっているという印象を受けたんですね。露悪どころか、むしろ「よくわからない概念でごまかさない」っていう、透徹さというか、思考の潔癖性みたいなものを個人的には感じます。「潔癖性」という言葉を、ぼくは褒め言葉で使うことが多いんですが。またこのイメージには、歌詞だけじゃなくて音自体の印象も作用していると思います。

 

 これは印象論的な感想でしかありませんが、次回はこれをもっと、論理的に追い込んでみようと思います。

 

終わりに・宿題


 今日の最後になりますけど、ぼくがボカロに本格的にハマったのは2010年あたりで、いま見返してもこの年は伝説入り曲(100万再生曲)のバリエーションがすごく幅広くて魅力的なんですが、その中でもとくに、ハチwowaka双璧時代みたいな感じがありました。今回、東大で講義をさせてもらって、「裏表ラバーズ」を取り上げるにあたって、wowakaさん本人に一言挨拶を入れたんですね。「勝手に褒めるね」とw そのとき、あわせて「をーさんが東大出身だって勝手に言わないから安心してねw」と言いました。でも彼はあっさり「あ、別にいっすよ」と。なので言うと、wowakaさんはみなさんの先輩にあたる、東大出身の作家です。

 

 もちろん、人生のうち4年程度を同じ学校で過ごしたということにすぎないんですが、でもそういうのって、ちょっと嬉しかったりしますよね。をーさんが別にいいって言ってくれて、じゃあってことでいま言わせてもらった理由はただひとつで、みんなの中に、音楽でもそれ以外でも、なにか作ってみたいという気持ちがある人がいるなら、ぜひやってみてほしいと。なんらかその後押しになるならってことで言わせてもらいました。創作することには、得られるものが必ずあります。たとえばぼくは、創作自体ももちろん楽しいし、さらにそのことが、人の曲を聴くこと、理解すること、評論をすることに大きなプラスのフィードバックを与えています。

 

 さて、戻りましょう。この講義は、課題を出すことを基本的には考えてないですが、ここで突然、問題です。
 DECO*27「モザイクロール」、Neru「ロストワンの号哭」、みきとP「心臓デモクラシー」。3曲とも知ってる人挙手。

 (ライブさんに笑わされる)

 教室見渡せるのぼくだけなんで、ぼくだけ笑わされてしまいましたがw けっこういますね。では、3曲とも知っている人、即答できたらすごい。

 この3曲に共通することはなんでしょう?

 

 というあたりで、ちょうどお時間ですので、今日の最後の曲は……わざわざ駆けつけてくれてすごく嬉しいので、触れていいですよね。出囃子をかけます。

 

♪ぼーかりおどP「1/6」

 

 

♪ライブP「S・K・Y」

 

 

 ということで、ぼーかりおどP、ライブP、手タレP、若干PことKNOTSさんのバンドのドラムの佐藤さんが遊びにきてくれていました。ライブさん突っ伏して顔隠してますけどw 顔出ししてないPもたくさんいますからね。前後しましたけど、この講義は録音、撮影ともに禁止でお願いします。

 こんなに、ぼくからしたら大先輩Pがたくさん集まってくれていて、緊張しましたが、嬉しかったですw いまかけている「1/6」は最近ミリオン再生を達成しました。おめでとうございます!(拍手)
 では、みなさんご清聴ありがとうございました。お疲れさまでした!(拍手)

 


(Sセメスター開講前の3月に行ったインタビューはこちら→ 初音ミクでエンタメはどう変わったのか? 東京大学初のボカロPによるゼミに迫る


 

2016年度Aセメスター
東京大学教養学部前期課程・主題科目
「ボーカロイド音楽論」
講師:鮎川ぱて@しゅわしゅわP
時限:木曜5限(16:50-18:35)
教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
講義概要:
 はじめまして、ボカロPで音楽評論家の鮎川ぱてと申します。本講義は、現代日本の音楽状況の中でもっとも重要な存在感を示す「ボーカロイド(ボカロ)」を用いた音楽群の分析を通して、近年のボカロ流行現象の本質、ひいては音楽自体の本質に迫ろうという講義です。
 講義では、講師がこれまでも強調してきた「永きにわたった人類による”うたの私有”が終わった」ことのインパクトを考えます。それは同時に、既存の音楽論を振り返り、再検討する機会にもなるでしょう。「アンチ・セクシュアル」というキーワードが、講義のひとつの軸になっていきます。
 最初に「シーンの中で人気を博したのが、ラブソング群ではなかった」という事実に注目します。かつて音楽評論家の湯川れい子さんは「人間は、思春期を迎えるとラブソングを求めるようになる生き物なんです」と語りました。ボカロシーンでは、反対の事態が起こりました。そこには、アンチ・ラブソング、とまでは言わないまでも、恋愛などの通念を自明とはしない感性が見受けられました(ex.「LOVEという得体の知れないもの」)。人によっては厨二病的とも言うその感性の内と外を、フランスの人文学者ミシェル・フーコーの議論を参照しながら考えていくところから講義はスタートします。

 主なアプローチ手法は、記号論、ジェンダー論、精神分析ですが、駒場と言えば、リベラルアーツ。私は、一本学出身者としてこの理念に共感する者です。学外から招かれた立場の者にかぎってこれを意識するというのはあるあるかもしれませんが、狭義のアカデミシャンではないゆえに可能なある種の知的蛮勇として、前記の人文科学的手法に留まらない領域横断的な視線を投げかけてみたいと思っています。
 開講にあたって大学から頂戴した前期課程講師用マニュアルには、皆さんに次の3つを促すようにと謳われています。「新しい概念の理解」「自発的想起」「創造的思考」。これらの現場的実践が、私の言葉で言えば「知的蛮勇」であり、「批評」です。
 ボカロは老若男女、すべての人を受け入れるシーンですが、その上で、やはり主役は、若い皆さんだと思っています。皆さんが当事者として立ち会い、そしていまだ深度のある議論の堆積が少ないボカロカルチャーこそは、そのような批評の対象とするに最適です。
 ボカロが好きな人。音楽が好きな人。かつてボカロが好きだった人。どの立場の人も主役です。科類は問いません。「感覚を思考の俎上にあげること」を恐れないあなたの参加をお待ちしています。

授業のキーワード:
ボーカロイド(初音ミク)、音楽論、批評、ジェンダー論、アンチ・セクシュアル、ぼくのかんがえたさいきょうリベラルアーツ

 

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