文化

2021年7月3日

【100行で名著】誰のための報道か——角南圭祐『ヘイトスピーチと対抗報道』

 ♪今すぐ走り出したいのに 止まれと言われ 歩けと言われ 転んだだけで見捨てられて——(浜田省吾『独立記念日』)

 「転んだだけで見捨てられ」るのが高校生ならば、転んでもいないのに見捨てられるのが現代日本に暮らすマイノリティーである。

 

 角南圭祐『ヘイトスピーチと対抗報道』(集英社新書、2021年)は、こうした現状を直接取材した著者が、マイノリティーを脅かす差別と、それを「中立報道」を装って明確に批判できずにいる言論へ厳しい視線を送る一冊だ。一口に「差別」「ヘイト」といっても、その内実は多様だ。本書では、街頭でのヘイトスピーチ、ネット上での差別的な書き込み、「官製ヘイト」(朝鮮学校に対する教育無償化除外措置など)、歴史「改竄(ざん)」に基づく差別といったさまざまなタイプの差別が通覧できる形で紹介されている。

 

 本書の最大の特徴は、現役ジャーナリストが現場で拾ったナマの声を紹介しながら差別の現状を訴えている点にある。特にヘイトスピーチに関して議論する場合、その規制と表現の自由をめぐる問題に執着し過ぎたあまり、被害を受けている当事者の存在を忘れかけてしまう危険性がある。われわれの社会の根底に法律がある以上、それを無視した議論を進めることは現実的ではない。しかし、人の「生」を脅かす行動が街頭で行われている状況において、法律的に難しい問題だとして思考停止に陥ってしまうのは、差別への加担行為に他ならない。この状況を鋭く批判できるのは、ヘイトスピーチの現場を何度も訪れてきた筆者のなせる業である。

 

 現在に焦点を当てる一方で、歴史的視野を持って書かれていることも本書の強みだろう。今の社会に存在する差別は、急に降って湧いてきたわけではない。近代日本の歩んだ道を理解しなければ、十分に理解することは難しい。そして何より、歴史を踏まえてモノを書くという行為そのものが、歴史に無理解な差別主義者に対抗する姿勢を示しているように思われる。

 

 新書という形式の都合上さらに詳しく考察する必要のある話題は多いが、本格的な議論に入る前に見取り図を得ようとするならば必読といっていい一冊だ。ちなみにある日刊紙の書評欄に「ヘイトに対抗する人にとって頼りになる一冊」とあったが、著者の熱心な活動の成果を前にしたならば「全ての人にとって頼りになる」と評価する方がいいだろう。

 冒頭の歌に戻ろう。こんな歌詞もある。

 

 ♪教科書から削る文字は 他にもあるぜ 例えば正義 たとえば希望……数えきれない——

 

 保障されもしない「正義」や「希望」を教科書で教えないでくれ、という嘆きである。

 

 本書が描く現状に鑑みると、ここは「例えば反差別、たとえば『中立』への逃げ」とでも歌う必要があるだろうか。もっとも、教科書が改良されたところで学習指導要領を作成している主体が「官製ヘイト」を行っている社会では、公教育での改善は難しいのかもしれないが。【阜】

 

角南圭祐『ヘイトスピーチと対抗報道』集英社新書、2021年

 

著者

角南圭祐(すなみ・けいすけ)

1979年、愛媛県出身。2020年から共同通信社広島支局次長。共著に『ろうそくデモを越えて』(東方出版)など。

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