COLUMN 2020年1月27日

【研究室散歩】@情報熱力学 沙川貴大准教授 「不可逆性」の起源に迫る

 夏に部屋を冷やすエアコンは、室内の熱を室外に放出している。熱を移動させる過程でエアコンは電力を消費するが、もし空気分子の速度の情報を取得できる仮想的な「悪魔」がいたとしたら、エネルギーを使わずとも熱を移動させられるという。このように物理学と情報が融合する「情報熱力学」が沙川貴大准教授(工学系研究科)の研究領域だ。

 

 沙川准教授は学部時代に統計力学の基礎や量子コンピューターなどの基礎理論である量子情報理論に興味を持ったという。大学院では「物理学の基礎理論と情報理論の両方を組み合わせて、物理学の基本原理を解明したい」と考え、現在の研究領域に進んだ。

 

マクスウェルの悪魔の概念図。窓を開閉して速い分子を右側に、遅い分子を左側に集めることで、左右の部屋に温度差が生じる(沙川准教授への取材を基に東京大学新聞社が作成)

 

 情報熱力学の歴史的な発端は19世紀の物理学者マクスウェルの思考実験だった。窓のある壁で仕切られた部屋があり「悪魔」は部屋の中の空気分子の速度を知っているとする。悪魔が窓を開閉して、速い分子を右側の部屋に、遅い分子を左側の部屋に通したとすれば、分子の平均速度が大きい空気ほど温度が高いため、左右の部屋に温度差が生じる。この結論は熱力学第二法則という物理法則に矛盾するように見えるため論争を呼んだが、現在では悪魔による操作も理論に取り入れる形で情報熱力学が定式化された。

 

 マクスウェルの悪魔は今では単なる理論上の存在ではない。沙川准教授は2010年に実験家と協力し、世界で初めてマクスウェルの悪魔を実験的に実現。現在では生物細胞の中に潜むマクスウェルの悪魔に類似した機構についても研究を進めている。

 「なぜ不可逆な現象が存在するのか」という問題も研究テーマの一つだ。例えば、熱いコーヒーを室内に放置すると冷めてしまうが、冷めたコーヒーが勝手に熱くなることはない。つまり、コーヒーの温度変化は不可逆的だと言える。

 

 一方、粒子の運動を支配する力学法則は可逆的だ。実際、振り子の運動をビデオで撮影して逆再生することで見える運動は、現実世界でも起こすことができる。原子や電子を記述する量子力学の世界でも、変化が可逆的に起きる点では変わらない。個々の分子や原子の運動は逆向きの変化を起こせるにもかかわらず、それらが集まって構成される物質では不可逆な現象が起きるというのだ。原因は古くから物理学の謎の一つだった。

 

 物理学では、孤立した物体では「エントロピー」と呼ばれる量が増加するような変化しか起きないという物理法則により、不可逆現象は記述される。近年、このエントロピー増大則を量子力学から説明する試みが進展している。沙川准教授は多数の粒子からなる物理系を考えてその状態変化を量子力学に基づき解析し、短い時間ではエントロピーが確かに増加することを証明。不可逆性の起源解明に近づいた。

 研究室では博士課程に進学する学生は半数ほど。研究を通じて得た理論的な考え方やプログラミングの技術を生かして情報系や金融系の企業に就職する学生もいるほか有名ユーチューバーも輩出した。

 

 理論物理の研究は主にコンピューターによる数値解析と数学的な計算から成る。「もちろん計算の能力は重要ですが、計算の起点となるアイデアがなければ研究は進まないものです」。学生たちが自力でアイデアを出すことを理想とするが「良いアイデアは一人だけで生まれるものではありません」。自由に議論できる雰囲気づくりを心掛けている。

 

 沙川准教授の研究室では工学的応用を意識しているものの「すぐに理論を応用するのではなく、長いスパンで応用に結びつく研究をしたい」と語る。「例えば、量子コンピューターは量子力学の基礎を深く掘り下げたからこそ見出された応用です。真に革新的な応用をするためには、基礎が重要なのです」

(上田朔)

 

沙川 貴大(さがわ・たかひろ)准教授

(工学系研究科)

 11年理学系研究科博士課程修了。博士(理学)。総合文化研究科准教授などを経て、15年より現職。


この記事は2020年1月14日号から転載したものです。本紙では他にもオリジナルの記事を掲載しています。

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