インタビュー

2021年7月13日

文理のバランス取れていますか? 文理両道の研究者に聞く①坂井修一教授

 日本では大学を中心に文理の分断が問題になることがあり、文理融合という言葉を耳にすることも多い。科学技術の発展が著しい現代、科学技術と人間が共生するために、文理の両方の視点から物事を考えることがますます重要になると考えられる。前編の今回では、情報科学と短歌という文理両方の分野に精通する坂井修一教授(東大大学院情報理工学系研究科)に、自身の経験やそれに基づいた文理の関わりについて話を聞いた。

(取材・山﨑聖乃)

 

坂井修一(さかい・しゅういち)教授(東京大学大学院情報理工学系研究科) 86年東大大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。筑波大学助教授(当時)などを経て01年より現職。歌集を11冊刊行し、現代歌人協会副理事長も務める。

 

人間の進歩とは何か

 

――情報科学を専攻した理由は

 

 もともと後期課程では物理学を学ぼうと思っていましたが、進学振分け(現在の進学選択)の時期にふと情報科学もいいなと考えるようになりました。物理学は第一原理を立ててから世界を演繹(えんえき)により解き明かそうとする一方、情報科学は現実にあるデータやアルゴリズムを重視します。ありのままのデータというある種雑多なものを使って世界を捉えることに魅力を感じ、情報科学を専攻することにしました。コンピューターシステムを中心に、その応用についても幅広く研究してきました。

 

――では、短歌創作を始めたきっかけは

 

 大学2年生の春に、友人に短歌誌『かりん』の歌会に連れて行かれたのがきっかけでした。まさか、40年も続けるなんて思ってもみませんでした。

 

――情報科学の研究と短歌創作の両者を続ける理由はどのようなものですか

 

 人生も社会も理屈だけで割り切れるものではないという思いが強くあります。だから、なりわいの情報科学以外に文化系のことにも手を付けたくなります。情報科学の研究と短歌は共に創造的行為であり、共通点もたくさんありますが、両者は相補的かもしれないですね。例えばコンピューターの性能には優劣が付きますが、短歌は理詰めで勝ち負けを決められません。また、短歌には1300年の歴史がある一方で、情報科学の歴史は7、80年程度で、現在すごい勢いで社会を変えています。短歌の世界の進みは遅過ぎますが、情報科学の世界は急ぎ過ぎているような気がします。短歌と情報科学の両方に取り組むことで自分の中で不思議とバランスが取れているような、アンバランスなような感覚です。

 

――以前、本紙の取材で「文明の進歩を人類の進歩と捉える考え方を留保することが短歌創作の大きな動機になる」と話しています

 

 文明の進歩を人類の進歩と捉えるのかは重大な問題です。以前、情報理工学系研究科長を務めていた時に、「人間は進歩しているか?」というテーマで公開講座を開講しました。文系の教員には人間は進歩していないという意見の人が多く、理系の教員には文明の進歩により人間は進歩したという意見の人が多くいました。私は理系の研究者としては珍しく、人間は進歩していないと考えます。例えば、短歌は特にそうなのですが、1300年前の柿本人麻呂の歌と現代の一番の歌人の歌のどちらが優れているかは一概には言えません。人間の一番中心にあるものを合理性ではなく芸術作品に立ち現れるようなものだと仮定すると、世界はガラッと変わります。人間の進歩って何だろう、人間って何だろうという問いが頭から離れないことが研究と創作の動機になっています。人間の感動や人間の恥ずかしさの根元を意識せずに生きていたくないということですね。

 

――人間の恥ずかしさとはどういうことでしょうか

 

 みんな取り繕って生きていますが、私は人間とはもともと恥ずかしいものだと思っています。もちろん世の中には尊敬できる人もいますが、その人が全く恥ずかしい生活を送っていないかというとそれはまた別の話ですよね。そもそも人間の進化の歴史までさかのぼっても、人間は最善を選択してきたとは限りません。ゴリラの研究をしていた京都大学の山極前総長が人間はゴリラより優れているわけではないと言うように、基準次第では人間が他の動物より優れていると言えないと思います。そこまで想像力を働かせられるでしょうか。毎日自分のやっていることが誇らしいという人には文学なんて不要かもしれませんが、私はどうも半分くらいは恥ずかしくて仕方ありません。恥ずかしくない違う何かになれればいいんでしょうけど、そうもいかないので研究・創作に向き合っています。

 

”科学が人をほろぼさぬ”ためには

 

――1986年に刊行された歌集『ラビュリントスの日々』(砂子屋書房)に「科学者も科学も人をほろぼさぬ十九世紀をわが嘲笑す」という歌が収められています

 

 もう35年も前の歌ですね。東大で博士論文を書いていた頃に詠みました。19世紀も科学が世の中に与える影響が大きかったとはいえ、20 世紀ほどではありませんでした。20世紀以後、科学はさまざまな分野で発展し革新的な進歩をもたらす一方で、核兵器やサイバーテロなど世界を一瞬で滅ぼせるようにもなりました。そのような危機感を共有するとともに、19世紀の科学者だったらどんなに良かったか、と遠望している歌です。今この歌を振り返ると上手いとは思いませんが、若い頃の自分にむち打たれるような気持ちになります。年を取るとなかなかここまで正直にものを言えませんから。今の自分もこの歌の延長線上に生きている実感があります。危うい境界をしっかりと見定めて、間違いを起こさないようにしないといけないと強く思っています。

 

――科学が著しく発展する現代、人文学の役割は

 

 難問ですね。まずは科学に関する正確な知識を持って、過小評価も過大評価もしないことが大切です。AIが進歩すると世の中の半分の人は失業するなどあおり文句はたくさんありますが、今のAIはある評価関数によって世界を最適化するようなもので、自分の意志で知識を獲得するといった本当の意味での能力をAIに持たせる原理は、まだ分かっていません。確かにAIに置き換えられる作業もありますが、大きな恐怖感を持つほどではないと冷静に見てください。

 

 その上で、科学の発展に伴い新たに浮上してくる倫理などの問題について、人文学は大きな役割を果たすべきです。理系の研究者は、科学自体にどのような危険があるかを指摘することができますが、実際の人間の闇の部分がどういうものか、それがどう科学と結び付くのか指摘するのは困難な場合が多いです。

 

 また、新時代の幸福とは何かを問う必要があります。例えば、もしデザイナーベビーが可能になったとしても、理想的な赤ちゃんは恐らくできないでしょう。頭脳明晰(めいせき)、スポーツ万能、容姿端麗と全てを持った子どもが一番幸せになるのかというと、私はそうは思いません。試行錯誤の中での人生の最適化という行為は科学が発展しても変わらず、それを成すためには人文系の知恵が必要です。

 

 特に自分の領域である短歌に引き付けて考えると、短歌には社会のある面を違う側面から捉える力があると思います。歌人の俵万智さんの最近の歌に「トランプの絵札のように集まって我ら画面に密を楽しむ」があります。これはコロナ禍にオンラインで歌会をしている場面です。オフラインでは三密を避けよと言われるけど、画面の上ではこんな風にみんなで集まって楽しんでいる。軽いトーンの歌だけれど上品さもあります。コロナ禍の社会を新しい角度から見ているわけですよね。

 

 私自身の歌は、新聞やテレビ番組で20年くらい前のものが引かれて、こんな歌もあったのかと言われることが多くあります。情報科学をやっていると社会の先の姿が見えることがあります。20年後の社会がどのようになっているか想像しながら短歌を作ることがあり、そういう予感に共感を持っていただけることもあります。

 

――文理の両分野を学ぶことができる、前期教養課程の学生にメッセージを

 

 駒場の時代にはいろいろな選択肢があります。しかし、選択とは相対的なものであることを忘れないでください。進学選択も絶対的ではありません。私が情報科学も歌も続けているように、両方を選ぶこともできます。自分をどう世の中と付き合わせるかを考えて、自立した一人の人間として生き、自分の中で文理のバランスをどう取っていくか考えることが大切です。世界では日本ほど文系・理系の区別を気にしていません。なので、帰属意識を持ち過ぎず、専門分野とは違うものも受け取って自分を豊かにするという発想を持ちましょう。自分を育てるための時間を惜しまないでください。

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